岡本 寧浦(おかもと ねいほ、寛政元年〈1789年〉 - 嘉永元年10月9日1848年11月4日[1])は、幕末土佐藩士儒学者。名は惟密。通称は大年、退蔵。雄峰、除闇と号した。

人物

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土佐国安芸郡安田浦の浄土真宗乗光寺5世・弁翁の子。妻は小野慶蔵の長女・とき[2]

当初、上京して本願寺で仏典を学んでいたが、甥の立然に寺を譲って還俗し、京都江戸儒学を学ぶ一方、安積艮斎佐藤一斎篠崎小竹大塩平八郎らと交流し、また大坂で儒学を教えた。

備後福山藩に藩儒として招かれるが、天保9年(1838年)土佐藩主・山内豊資に召されて用人格上下3人扶持を賜り、教授館下役に取り立てられる。また高知城下新町で私塾・紅友社を開いた。後に山内豊熈とともに南学中心だった土佐藩内の儒学に陽明学を導入する事に貢献した。

弘化3年(1846年)に辞職し、高知城下中新町の私塾経営に専念し、門弟には森田梅礀岩崎弥太郎岩崎秋溟清岡道之助奥宮慥斎河田小龍らがいる。また、樋口真吾武市瑞山鹿持雅澄吉田東洋間崎哲馬らと交流を持った。

大正13年(1924年)贈正五位[3]。墓所は高知県高知市薊野北町の真宗寺墓地。

逸話

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  • 学僧だった頃、和上石泉に名代として本願寺へ赴く事になったが、本願寺側は寧浦の言う事を聞かず、鐘楼の下で待つように指示した。すると寧浦は「それならば腹を切る」と言い放ち、僧侶が切腹だけはやめてくれと依願されたという。その帰り、寧浦は大坂で10日間休まずに教行信証の講義を行い、間もなく還俗してしまった。
  • 三菱財閥の祖・岩崎弥太郎は義理の甥にあたるが、風体の悪い寧浦の事を弥太郎は内心嫌悪していた。しかしある時、全国の学者が幕府お抱えの学者と論戦を交わす機会があった際、寧浦は誰にも引けを取らない論説を披露した。それを聞いた弥太郎は、それまでの自分の態度を改めたという。

関連作品

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脚注

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  1. ^ 寛政6年(1794年) - 嘉永6年10月4日1853年11月4日)という説もある。
  2. ^ 岩崎弥太郎の母・美和の姉にあたる。なお実業家豊川良平はときの甥で、近藤廉平の妻・従子はときの姪(豊川の妹)にあたる。
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.51