岡本 健一郎(おかもと けんいちろう、1933年2月16日 - )は、熊本県熊本市[1]出身の元プロ野球選手内野手)・解説者

岡本 健一郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県熊本市
生年月日 (1933-02-16) 1933年2月16日(91歳)
身長
体重
176 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1955年
初出場 1955年
最終出場 1963年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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済々黌高では1950年、エース岡本和弘(明大日立製作所)を擁し、夏の甲子園一塁手として出場。準決勝に進むが大久保英男のいた鳴門高に敗退[2]。高校同期に大学、プロ野球でもチームメートとなる遊撃手の片山嘉視がいた。卒業後は専修大に進学。東都大学野球リーグでは在学中に4回優勝[3]1954年全日本大学野球選手権大会では準決勝に進出するが、秋山登らのいた明大に敗れる。1953年秋季リーグから2季連続でリーグ打撃成績2位を記録。片山以外の大学同期に渡辺清がいる。

片山、渡辺とともに、1955年阪急ブレーブスへ入団。1年目から左翼手、一塁手として起用され、規定打席にも達する(23位、打率.268)[1]。四番打者としても15試合に出場した。1956年にはリーグ4位となる75打点を記録。1957年には一塁手としてパ・リーグベストナインに選ばれた[1]。しかし1958年は打撃不振が続き、6月には故障でレギュラーを外れる。その後は川合幸三戸口天従らと併用されるが、1963年限りで引退[1]

引退後は新阪急ホテルに勤務し[1]、その後はサンテレビボックス席解説者(1974年)を務めた。その後は高知新阪急ホテルで社長となり、阪急やダイエーのキャンプ滞在先として受け入れていた[4]

1963年6月16日近鉄との対戦では、徳久利明に9回まで無安打に抑えられていたが、2死後に二塁打を放ちノーヒットノーランを免れた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1955 阪急 127 446 403 46 108 19 6 4 151 53 3 4 1 6 35 1 1 50 4 .268 .328 .375 .703
1956 150 599 526 62 126 19 4 8 177 75 10 7 4 7 59 6 0 52 5 .240 .316 .337 .653
1957 132 557 472 58 128 25 7 9 194 67 17 8 5 5 74 6 1 59 4 .271 .371 .411 .782
1958 54 202 179 19 30 3 2 2 43 17 1 1 0 0 21 1 1 33 1 .168 .259 .240 .499
1959 88 278 249 13 53 6 0 4 71 27 2 6 3 3 22 0 1 51 7 .213 .279 .285 .565
1960 81 211 189 7 42 6 1 3 59 16 1 2 3 1 18 0 0 46 5 .222 .290 .312 .602
1961 78 173 156 15 34 13 1 0 49 4 1 0 0 0 17 1 0 30 2 .218 .295 .314 .609
1962 87 186 169 13 39 3 3 4 60 18 1 0 1 1 11 1 4 23 3 .231 .293 .355 .649
1963 77 74 66 0 13 3 0 0 16 1 0 0 1 0 6 0 1 7 1 .197 .274 .242 .516
通算:9年 874 2726 2409 233 573 97 24 34 820 278 36 28 18 23 263 16 9 351 32 .238 .315 .340 .656
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

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背番号

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  • 5 (1955年 - 1963年)

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、120ページ
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 「東都大學野球連盟七十年史」 東都大学野球連盟編纂委員会 2001年
  4. ^ 神宮球場ガイドブック1997年秋号「神宮球場から翔びたったプロ野球のスターたち」越智正典


外部リンク

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