山田 麟嶼(やまだ りんしょ、1712年(正徳2年) - 1735年4月11日(享保20年3月19日))は江戸時代中期の儒学者[1]。名は正朝、弘嗣。字は大佐。別号に尚古堂。
江戸に生まれる[1]。神童と謳われた[2]。実父山田宗円に学んだのち、荻生徂徠の門下で古文辞学、唐音を修める[1]。室鳩巣の推薦により13歳で幕府儒官となり、そののち京都の伊藤東涯に入門[1]。天然痘により享保20年(1735年)3月19日死去[1]。享年24歳。江戸時代中期の医師山田図南は孫[1]。