山田長三郎
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山田 長三郎(やまだ ちょうざぶろう、1887年1月1日 - 1935年10月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。兵務課長。
略歴
編集- 1908年(明治41年)5月 - 仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業(20期)。
- 1911年(明治44年)12月 - 砲兵中尉
- 1912年(大正元年)11月 - 陸軍砲工学校高等科卒業
- 1916年(大正5年)11月 - 陸軍大学校卒業(28期)
- 1918年(大正7年)7月 - 砲兵大尉・参謀本部員
- 1921年(大正10年)6月 - 陸軍省軍務局課員
- 1923年(大正12年)8月 - 砲兵少佐
- 1925年(大正14年)9月 - 欧米出張(- 1926年3月)
- 12月 - 近衛野砲兵連隊付
- 1926年(大正15年)8月 - 近衛野砲兵連隊大隊長
- 1927年(昭和2年)7月 - 陸軍技術本部付兼軍務局課員(兵務課)
- 1928年(昭和3年)3月 - 砲兵中佐
- 1930年(昭和5年)8月 - 軍務局兵務課高級課員
- 1932年(昭和7年)8月 - 砲兵大佐・野砲兵第22連隊長
- 1933年(昭和8年)8月 - 軍務局兵務課長
- 1935年(昭和10年)8月 - 陸軍兵器本廠付
- 10月 - 自決
栄典
編集相沢事件
編集1935年8月12日に発生した相沢事件において、殺害された永田鉄山軍務局長と、東京憲兵隊長・新見英夫大佐と共に在室していた。新見大佐は、永田をかばって相沢三郎中佐に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた。そのため事件後、軍内部及び世間から批判を受け、山田は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決した。