山田健一 (ゴルファー)
山田 健一(やまだ けんいち、1947年3月24日 - )は東京都出身のプロゴルファー。
Kenichi YAMADA | |
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基本情報 | |
名前 | 山田 健一 |
生年月日 | 1947年3月24日(77歳) |
身長 | 174 cm (5 ft 9 in) |
体重 | 77 kg (170 lb) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都 |
経歴 |
来歴
編集成城学園中学校時代の同級生には後に俳優となる田村亮がいる[1]。
15歳でゴルフを始め[2]、1964年の全国高校ゴルフ選手権では個人戦で4位に入る[3]。
日本大学ゴルフ部では西田升平[4]・沼澤聖一の1年後輩に当たり[5] [6]、竹田昭夫監督のスパルタ指導で頭角を現す[7]。4年次の1968年には全日本学生と関東学生、中日杯を取り[2]、中部銀次郎と共にアイゼンハワートロフィー日本代表に初めて選出される[8]。卒業後の1969年と1970年には日本アマ、関東アマに勝って鳴り物入りで1973年にプロ入りする[2]。
1969年の日本アマでは入江勉をプレーオフで倒し[9]、1970年には母校の後輩である高橋信雄、入江と共にアイゼンハワートロフィー日本代表に選出されて個人戦10位に入り[8]、1971年には第1回JALオープンと中日クラウンズでベストアマを獲得[10] [11]。
1975年にゴルフダイジェストトーナメントで宮本省三を破って優勝したものの、最終ラウンドで雨が降り、63ホール打ち切りの変則優勝であった[2]。未完の大器であった山田はこの試合でプロ入り0勝から挽回[12]し、高橋と共にシード入り[13]するが、以後は鳴かず飛ばずで、1977年はシードにもなれない始末であった[2]。
1976年の日本プロマッチプレーでは2回戦で尾崎将司と対戦し、アウトで尾崎から3ダウンも奪って1アップで勝利した[14]。同年の関東オープンでは、尾崎・村上隆・青木功・小林富士夫・菊地勝司に次ぎ、安田春雄・新井規矩雄・原孝男と並んでの7位タイに入った[15]。
1978年には奮起し、読売ジャイアンツの多摩川自主トレに参加[2]。王貞治・張本勲・土井正三・柴田勲に交じって体力作りに励み、開幕後はその成果が徐々に現れ、札幌とうきゅうオープンでは10位、関東プロでは青木・中嶋常幸・横島由一・金井清一・草壁政治・尾崎・謝敏男(中華民国)に次ぐと同時に竹安孝博と並んでの9位タイ[16]に入る[2]。
福岡を襲った水不足の中で行われたKBCオーガスタではブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)ら有力選手が予選落ち[17]したが、山田は初めて4日間回っても疲れをあまり感じず、真冬のトレーニングの成果が真夏に出た形となる[2]。大詰めになって11アンダーで7人が並ぶ混戦となり、鷹巣南雄、ベン・アルダ(フィリピン)などが躓く中、「魔の17番」でバーディーを取り[17]、18番をパーに収めて優勝を飾った[2]。
山田は16番でボギーとした時点でジーン・リトラー(アメリカ)、アルダ・鷹巣・久保四郎・宮本康弘・青木と共に11アンダーで並ぶが、17番でバーディーを取った時に「勝てる」と思った[2]。プレーオフのことなどを考えず、「ただバーディーを取りたい」と念じた17番、2打のバンカー越えをサンドウエッジで80cmに寄せてバーディーとし、単独首位となる[2]。18番のティーグラウンドでは膝が緊張から震えるが、水を大量に飲んで、心を落ち着かせたのが功を奏した[2]。
1978年の日本オープンでは中村通・尾崎・前田新作・郭吉雄(中華民国)と並んでの9位タイ[18]、1979年の関東プロでは長谷川勝治・尾崎と並んでの4位タイ[19]に入った。
1979年の日本国土計画サマーズでは2日目に野口茂と共に首位呂良煥(中華民国)と1打差の2位タイ[20]に着けるが、連覇を賭けたKBCオーガスタでは初日に4オーバー76の113位と大きく出遅れ[21]、2日目には8オーバーでファジー・ゼラー(アメリカ)や村上・中嶋と共に予選落ちした[22]。
1980年のくずは国際では初日に67をマークして竹安・尾崎直道・尾崎健夫・中嶋と並んでの3位タイ[23]でスタートし、最終日には69をマークして[24]、入江・前田と並んで横島の2位タイ[25]に入った。
ツアープロの傍らで1983年からは日本テレビ解説者としても活躍[26]するが、37歳の時に癌で胃を切除して以来、テイクバックで腹直筋がスイングとの噛み合わせの邪魔をする[27]ようになり、1986年の東北クラシック[28]を最後にレギュラーツアーから引退。
ツアー引退後は解説者のほか、静岡県菊川市のホロンゴルフ倶楽部を設計し[29]、沖縄県宮古島市のシギラベイカントリークラブで支配人も務めた[30] [1]。
主な優勝
編集- 1975年 - ゴルフダイジェストトーナメント
- 1978年 - KBCオーガスタ
脚注
編集- ^ a b 田村亮のちょっと嬉しかったこと
- ^ a b c d e f g h i j k l 朝日新聞縮刷版p881 昭和53年8月28日朝刊19面「大器・山田やっと開花 混戦、17番で抜け初優勝」
- ^ Untitled
- ^ 西田升平氏が死去、日大ゴルフ部で第1期黄金時代築く - サンスポ
- ^ 出身プロ一覧 | 日本大学ゴルフ部
- ^ 日本大学ゴルフ部OB会 | プロ名簿
- ^ Untitled
- ^ a b JGA 日本ゴルフ協会
- ^ 杉山通敬『中部銀次郎 新ゴルフの心』講談社、2001年5月1日、ISBN 4062106612、p263。
- ^ 府中CCの歴史|府中カントリークラブ
- ^ 中日クラウンズ | CBCテレビ | クラウンズの歴史
- ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】東名カントリークラブ。中嶋常幸、4日間ツアー競技初優勝。1976年ゴルフダイジェストトーナメント
- ^ 大学ゴルフ界から新星続々 “学士プロ”のルーツをたどる
- ^ 第2回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1976年)
- ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】嵐山カントリークラブ。ジャンボ尾崎が72ホール目に放ったとどめのスーパーショット。1976年関東オープン
- ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】新千葉カントリー倶楽部。青木功は語る「中嶋は焦って負けた」1978年関東プロ
- ^ a b 大会の軌跡|Sansan KBCオーガスタゴルフトーナメント2023
- ^ 第43回日本オープンゴルフ選手権(1978年)
- ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】東筑波カントリークラブ。青木功は変わった。「忍耐」そして「挑戦」へ。1979年関東プロ
- ^ 朝日新聞縮刷版p131 昭和54年8月4日朝刊19面「呂良煥、首位に立つ サマーズゴルフ第二日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p778 昭和54年8月24日朝刊16面「草壁ら三人リード 青木62位 注目のゼラーは39位 KBCオーガスタ・ゴルフ第1日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p819 昭和54年8月25日朝刊17面「ゼラー不振、予選落ち 郭首位、3差で小林続く KBCオーガスタ・ゴルフ第2日」
- ^ 毎日新聞縮刷版p418 昭和55年4月13日朝刊18面
- ^ 毎日新聞縮刷版p438 昭和55年4月14日朝刊14面「横島が逃げ切る」
- ^ McCormack, Mark (1981). Dunhill World of Professional Golf 1981. Springwood Books. pp. 172, 375–376. ISBN 0862540054
- ^ 第47回水町メディカルクラブゴルフコンペ
- ^ a b 【医師水町 視線の先に】ゴルフが結ぶ縁 さまざまな病いと闘い続ける山田健一プロ 76歳の復活へ気力衰えず
- ^ 山田 健一選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
- ^ 提携ゴルフ場のご案内|札幌カントリー倶楽部
- ^ クラブハウス探訪