山村兵衛
山村 兵衛(やまむら ひょうえ、1890年(明治23年)12月5日[1] - 1953年(昭和28年)6月25日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
山村 兵衛 | |
---|---|
カパンダ甲板にてトム・イースティック准将に軍刀を差し出す山村兵衛 | |
生誕 |
1890年12月5日 日本 和歌山県 |
死没 | 1953年6月25日(62歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
指揮 |
独立混成第71旅団 第12独立守備隊 歩兵第154連隊 秋田連隊区司令官 |
経歴
編集1890年(明治23年)に和歌山県で生まれた[1]。1912年(明治45年)5月28日、陸軍士官学校第24期卒業[1][2][3]。同年12月24日、陸軍歩兵少尉に任官された[2][4]。
1939年(昭和14年)3月9日に陸軍歩兵大佐に進級し[5][6]、8月1日に秋田連隊区司令官に着任[6]。1940年(昭和15年)8月に歩兵第154連隊の初代連隊長(中部軍・第54師団・第54歩兵団[7][8][9])に転じた[10][6]。
1944年(昭和19年)6月10日に第12独立守備隊長(南方軍)に就任し[1][11]、クアラルンプールに出征[11]。同年8月1日に陸軍少将に進級[6]、10月16日に独立混成第71旅団長(南方軍・第37軍)に就任し[1]、クチンの守備に任じて終戦を迎えた[1]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g 福川 2001, 772頁.
- ^ a b 外山 1981, 308頁.
- ^ 『官報 1912年06月01日』大蔵省印刷局、1912年6月1日 。
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正9年9月1日調680頁
- ^ 『官報 1939年03月10日』大蔵省印刷局、1939年3月10日 。
- ^ a b c d 外山 1981, 323頁.
- ^ 外山・森松 1987, 734頁.
- ^ 外山・森松 1987, 737頁.
- ^ 外山・森松 1987, 738頁.
- ^ 『歩兵第十聯隊史 : その歴史七十有二年、軍旗の下に集いし者無慮十万五千名』歩兵第十連隊史刊行会、1974年 。
- ^ a b 外山・森松 1987, 767頁.
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
参考文献
編集- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。