山本 幸正(やまもと ゆきまさ、1974年8月3日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手投手)、野球指導者。

山本 幸正
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都西多摩郡日の出町
生年月日 (1974-08-03) 1974年8月3日(50歳)
身長
体重
180 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1992年 ドラフト5位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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堀越高校では2年秋の都大会決勝で帝京高校三澤興一と投げ合うが敗れて準優勝。3年時の1992年春に、1学年後輩の井端弘和らと第64回選抜高等学校野球大会へ出場。村野工業高校との1回戦で、安達智次郎に投げ勝った。星稜高校との2回戦では、4番打者の松井秀喜に第4打席で本塁打を浴びた[1]末に敗退した。大会終了後に右肘の軟骨除去手術を受けた[1]、夏は他の投手が主戦となり西東京大会決勝では先発するが初回に2連続四球で外野手に退くと7回に再登板したが暴投で失点すると降板して敗戦[2]。前述の星稜高校戦で松井を第3打席まで凡退させたことで一躍注目[1]同年のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから5位指名を受けたことを機に入団した。背番号は61。ちなみに、阪神はこの会議で松井を1位指名。重複指名による抽選で独占交渉権を逃すと、再指名で安達の交渉権を獲得した末に、安達を入団させている。高校では1学年上に野村克則がいた。

山本自身は、入団1年目に、足の靱帯を右肘に移植する手術を受けた。手術自体は成功したものの、リハビリを経てブルペンで投球練習に臨んだところ、右肘の靱帯を再び断裂。後にトミー・ジョン手術を受けたが、右肘の痛みは消えなかった[3]。結局、公式戦どころか実戦での登板が一切ないまま、1995年に球団から戦力外通告を受けたことを機に現役を引退。在籍中に居住していた「虎風荘」(球団合宿所)の梅本正之寮長(当時)の斡旋で、スポーツ医療品卸会社の営業職に転じた[3]。その一方で、学生時代からユナイテッドアローズの店舗によく通うほどのファッション好きが高じて、週末にはアルバイト店員として同社に勤務[1]。1996年の8月から仕事をアルバイト一本へ絞った後に、1997年に正社員として入社した[3]

ユナイテッドアローズでは、御堂筋店の店長、原宿本店の副店長、本社販売部のスーパーバイザーを歴任。他の社員から親しみを込めて「阪神(さん)」と呼ばれながらも、40代の前半に販売部の副部長へ昇進した。もっとも、「野球で育った身なので、40歳を超えてまで洋服に携わる仕事を続けるより、指導者として野球に恩返しがしたかった」 とのことで、社内の副業制度を活用しながら2018年7月から3ヶ月限定で野球塾を営んだ。同年末に開かれた学生野球資格回復制度研修会の受講を経て、2019年2月5日付で、日本学生野球協会から資格の回復を認定[4]。この認定によって、同協会に加盟する高校・大学の野球部の選手への指導が可能になったため、同年3月31日付でユナイテッドアローズを退社した。退社後の同年8月から、パーソナルトレーナーとして本格的に活動するとともに、投手専門の個人野球教室「PPC」(Personal Pitching Clinic)を開設[3]

2023年2月に東京都立調布南高校硬式野球部投手コーチ就任。

詳細情報

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年度別投手成績

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  • 一軍公式戦出場なし

背番号

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  • 61 (1993年 - 1995年)

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d 週刊ベースボール2015年2月21日号 P96
  2. ^ ベースボールマガジン1993年春季号「高校新卒ルーキーくん33人の実績」ベースボールマガジン社
  3. ^ a b c d 野球から洋服の世界へ、そして不惑を越えた今「野球に戻る」 元阪神・山本幸正さんYahoo!ニュース2019年10月23日付記事)
  4. ^ 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者

外部リンク

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