山本哲也 (野球)

日本の野球選手・指導者

山本 哲也(やまもと てつや、1934年9月26日 - 2019年10月13日[1])は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手捕手)・コーチ。弟は阪急ブレーブスで活躍した山本公士

山本 哲也
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県熊本市
生年月日 (1934-09-26) 1934年9月26日
没年月日 (2019-10-13) 2019年10月13日(85歳没)
身長
体重
170 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1953年
初出場 1953年
最終出場 1964年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

経歴

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熊本工業高校では同期の山部儒也らとバッテリーを組み、捕手として3年次の1952年夏の甲子園予選西九州大会決勝へ進出するも、長崎商太田正男に完封を喫し甲子園出場はならなかった。他の高校同期に八浪彬雄(巨人)、島田雄二がいた。

山部と共に卒業後の1953年大阪タイガースへ入団し、2年目の1954年には二軍の正捕手となる。当初は熊本工の先輩である後藤次男が左腕の山部を高く評価し、球団に獲得を進言[2]。阪神フロントが山部獲得のため熊本に赴いて説得したところ、山部が「(相棒捕手の)山本と一緒なら入団する」と言ったことから、山本もタイガースに入団することとなった[2]。山部は1軍で投げることなく3年で退団したため、抱き合わせで入団した山本が主力選手に成長することになった[2]。入団時の正捕手は徳網茂で、続いて石垣一夫が正捕手になったが、1957年からは石垣に代わって正捕手の座を獲得[2]1958年に日系二世の田中義雄監督が就任すると、リードと守備に秀でた山本を重用し[2]1959年天覧試合にも出場している[3]。球史に残る長嶋茂雄の「天覧サヨナラ本塁打」を山本は真後ろからマスク越しに見ることになり、打たれた村山実は「ファウルだった」と主張したが、小山正明は「(捕手の)山本哲也が抗議していなかったから、ホームランなんだろう」と語っている[2]オールスターにも2度出場(1958年1959年)し、1959年の第2戦(大阪)では安打を放っている[2]。打率は2割前後と打てる打者ではなかったが、渡辺省三・小山・村山といった名投手とバッテリーを組み、守備面で多大な貢献をした。1962年には戸梶正夫との併用ながらリーグ優勝に力を添え、同年の東映との日本シリーズでは7戦中6戦に先発マスクを被る。10月13日の第1戦(甲子園)では2回に土橋正幸から右犠飛で先制点を挙げるが、その後は振るわず9打数1安打に終わった。1963年には福塚勝哉辻佳紀の台頭もあって控えに回り、相性の良かった小山とのバッテリーを中心に起用された。この年の阪神は山本ー小山のほか、福塚ー村山や戸梶ージーン・バッキーなど相性の良さで捕手を起用し、今でいう「プラトーン・システム」でやりくりした。1964年限りで現役を引退。

引退後も阪神で二軍バッテリーコーチ(1965年 - 1967年, 1976年 - 1979年)、一軍ブルペンコーチ(1975年)、スカウト(1968年 - 1974年)、スコアラー(1980年 - 1984年)、業務部次長記録担当(1985年 - 1995年)を歴任。コーチ1期目の1967年には二軍のブルペン担当ながら、新人時代の江夏豊の球を受けた[4]。スカウトに転出した1968年もキャンプ地を訪れると、江夏はすぐに山本を見つけ出して「おっさん、ちょっと治してくれないか。悪いところがあったら言うてくれ」と頼み、新任の一軍投手コーチであった林義一も山本の手腕に期待[4]。山本はジャージ姿になってブルペンに行き、投げる時に体が一塁側に早く開いてしまう癖を見つけ、江夏に「ユタカ、体の開きが早くなっているからボールに力がない。開かないように外角からまず投げろ。外から投げて、次第に体を閉めて内角へ投げよう。最初から内角ばかりに投げると体のバランスが悪くなる」と忠告[4]。普通の投球練習では内角から始めて徐々に外角へ変えてゆくが、山本はあえて逆の練習方法を行った。江夏のバランスは改善され、内角、外角双方へ力の入ったボールが行くようになり、2年目は25勝、401奪三振という成績を残し、以後大投手への道を歩むきっかけを作った[4]。山本は江夏の球を受け続けた結果、指は関節が曲がるのとは逆の方向に「く」の字の形に曲がってしまった[4]。江夏は和田徹と組みたかったが、14歳上の大先輩である山本が相手ゆえ、常に気が張り詰めて手が抜けなかった。そうした緊張感の中で投げたことで、実戦のマウンドでも満足な成績が残せたため、後に「江夏豊という投手は、山本さんに育てられたと言っても過言ではない。」と著書に記している[5]。1995年の阪神・淡路大震災で被災して以降、退職後の1996年に故郷の熊本へ転居し、少年野球の指導にあたった[6]

2019年10月13日に心臓突然死により熊本市内の病院で死亡していたことが、同16日に阪神球団より発表された[1]。85歳没[7]。当日まで自宅で気丈であったが突然倒れ、救急車で病院に搬送されるも意識は戻らず、前日は孫と電話で食事の約束をしたばかりであった[7]。同年4月には杖をつきながら外出し、曲がったままの左親指を前に差し出しながら「俺の勲章だよ」と懐かしんでいた[7]。通夜・告別式は同15日に近親者で執り行われた[7]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1953 阪神 6 5 5 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 -- 0 -- 0 1 0 .200 .200 .200 .400
1954 16 6 6 2 1 0 0 1 4 2 1 0 0 0 0 -- 0 0 0 .167 .167 .667 .833
1955 54 73 69 8 17 2 0 0 19 2 1 0 0 0 3 0 1 9 0 .246 .288 .275 .563
1956 57 91 86 7 15 3 1 0 20 4 3 0 4 0 1 0 0 16 2 .174 .184 .233 .416
1957 93 265 248 22 56 9 3 3 80 21 6 2 6 1 9 1 1 27 9 .226 .256 .323 .578
1958 87 255 239 21 47 8 1 3 66 17 7 6 3 1 10 0 2 28 5 .197 .235 .276 .511
1959 122 339 321 17 61 10 2 1 78 15 2 2 6 3 8 1 1 43 7 .190 .212 .243 .455
1960 99 216 194 9 45 4 0 1 52 12 3 2 5 4 11 0 2 35 3 .232 .280 .268 .548
1961 107 236 220 13 41 3 0 1 47 11 2 4 9 0 7 0 0 31 6 .186 .211 .214 .425
1962 98 164 144 7 34 4 0 0 38 11 4 0 11 0 8 1 1 17 6 .236 .281 .264 .545
1963 77 115 105 6 20 2 2 2 32 14 0 0 3 2 4 0 1 15 2 .190 .227 .305 .532
1964 38 19 18 0 3 0 0 0 3 0 0 1 0 0 1 0 0 2 1 .167 .211 .167 .377
通算:12年 854 1784 1655 112 341 45 9 12 440 109 29 17 47 11 62 3 9 224 41 .206 .239 .266 .505

記録

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背番号

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  • 39 (1953年 - 1956年)
  • 25 (1957年 - 1964年)
  • 67 (1965年 - 1967年)
  • 77 (1975年 - 1979年)

脚注

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関連項目

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