山手橋 (広島市)
山手橋(やまてばし)は、広島県広島市の太田川(太田川放水路)にかかる道路橋。
山手橋 | |
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下流より | |
基本情報 | |
所在地 |
広島県広島市西区 左岸:中広町2丁目 - 右岸:山手町[1] |
交差物件 | 太田川水系太田川(太田川放水路) |
座標 | 北緯34度24分21.3秒 東経132度26分22.2秒 / 北緯34.405917度 東経132.439500度 |
関連項目 | |
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概要
編集市道西1区265号線に架かる橋。上流側に山陽新幹線および山陽本線が通るJR鉄道橋、下流側に広島高速4号線(市道広島西風新都線)が通る広島西大橋がある。
車道専用橋であり、下流側に幅員2.0mの人道橋(歩道橋)を併設している[2]。
元々この地にあった橋が、太田川放水路改修工事に伴い1963年に架けなおされた。その後歩道橋を併設し、幅員を4.0mから5.5mに拡幅工事を行っている。
諸元
編集歴史
編集画像外部リンク | |
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1930年ごろの広島市地図 | |
file:Hiroshima map circa 1930.PNG - 新光社『日本地理風俗大系 第10巻』。これには書かれていない。 |
元々この場所には「山手川」が存在した。太田川が形成した広島三角州内の西端に位置した川で、現在の放水路よりかなり狭い川であった。広島は広島城開城以降に開発されていったものの、江戸時代は防犯のため城下に架橋規制が引かれていたことから[5]、山手川には西国街道筋の己斐橋のみ架かっていた状況であった。
戦前の山手橋は、現在とは違う位置に架橋されていた。戦前にこの位置付近にあったのは「金鋳橋(あるいは南三篠橋)」であり、山手橋は山手川と福島川の中間合流で南北方向にかかる橋(右地図参照)[6]、つまり現在の中広大橋付近に存在した[7]。1925年(大正14年)6月製版の地図には書かれておらず[8]、誠文堂新光社『日本地理風俗大系 第10巻』にある1930年ごろの地図にも書かれておらず、1936年(昭和16年)『広島都市計画緑地配置図』には書かれている[9]。つまり、山手橋は1930年代前半に架橋されている。当時の橋梁形式は不明。
1945年(昭和20年)8月6日に広島市への原子爆弾投下により被爆。爆心地から1,980mに位置した 。その当時、山手橋は落橋していたのか幅2間(約3.6m)ほどの仮板橋が架けられていたため爆風で吹っ飛んだ[7][10]。
戦後、山手川と福島川の間にあった中州を浚渫し河川幅を拡幅する「太田川放水路改修工事」が行われ、戦前の山手橋付近は埋め立てられ、新しく建設省により現橋のものに架けなおされた[2]。1963年(昭和38年)12月竣工[1][4]。橋種はプレストレスト・コンクリート橋を採用、当時では国内での施工実績の少なかったディビダーク工法(橋脚からヤジロベエのように張り出しながら打設していく工法)が採用された[2]。現在は市に移管している[2]。
なお当時は橋上に待避所が2箇所あったのみで、1977年(昭和52年)下流側に歩道橋を併設し車道専用橋としたものの、交通量増大に伴い幅員4mの狭さが問題となった[1][2]。交通渋滞解消のため、当時は朝の7時から9時の間は旧市内方向のみの一方通行と規制されていた[1]。架替を含めた協議の結果、現橋幅員を5.5mに拡幅することが決定し、2002年(平成14年)12月から工事を開始、2004年(平成16年)に再開通した[2]。総工費約5億5千万円[1]。
ギャラリー
編集脚注
編集- ^ a b c d e “山手橋拡幅完了し開通 広島西区”. 中国新聞メディアクラブ (2004年3月10日). 2013年12月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 平成15年度全建賞 2003, .
- ^ a b ひろしま地図ナビ
- ^ a b c d e f “太田川放水路フォトで川くだり”. 広島市西区コミュニティ交流協議会. 2013年12月21日閲覧。
- ^ “しろうや!広島城 第20号” (PDF). 広島城公式. 2013年12月21日閲覧。
- ^ 松尾雅嗣、谷整二「広島原爆投下時の一時避難場所としての川と橋」(PDF)『広島平和科学』第29巻、広島大学、2007年、1頁-25、2013年12月21日閲覧。
- ^ a b 広島市 2005, p. 253.
- ^ “広島都市計画地域指定参考図”. 国立公文書館. 2013年12月21日閲覧。
- ^ “広島都市計画緑地配置図”. 国立公文書館. 2013年12月21日閲覧。
- ^ 山手橋への言及はないが1943年(昭和18年)に集中豪雨があり、同じ山手川の旭橋など複数の橋が流失した記録(昭和18年9月21日 毎日新聞(大阪・夕刊))がある。この水害後にできた仮架橋の可能性もある
- ^ a b 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成