山崎 定義(やまざき さだよし、1883年明治16年)2月1日[1] - 1971年昭和46年)6月4日[1])は、日本の陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍中将富山市長

山崎定義

経歴

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富山県上新川郡富山千石町(現富山市)で、旧富山藩士、陸軍大尉・山崎定孝、敏(とき)夫妻の長男として生まれたが、生後11ヵ月で父が病のため死去した[2]。啓迪高等小学校(その後、八人町小学校を経て現富山市立芝園小学校)を経て、富山県立富山中学校に進み、三年次に名古屋陸軍地方幼年学校を受験して合格[2]中央幼年学校を経て陸軍士官学校(15期)に進み[2]1903年11月30日、同校を卒業[3]して金沢歩兵第35連隊に勤務[2]1904年2月12日、陸軍歩兵少尉に任官[3]日露戦争では小隊長として出征し、旅順攻囲戦で負傷した[2]

1910年11月29日、陸軍大学校(22期)を卒業し陸軍歩兵学校勤務となる[4]。翌年ドイツ帝国に遊学し歩兵大尉に昇進[2]。以後、歩兵学校教官、大阪第4師団参謀参謀本部附、士官学校戦術部長、佐倉歩兵第57連隊長、近衛師団司令部附(法政大学配属将校)、歩兵学校附、東京歩兵第2旅団長、第2師団司令部附などを歴任[1][2][3]1934年8月1日、陸軍中将に昇進と同時に待命となり、同年9月30日、 予備役編入となった[1][2][3]

1936年2月6日、富山市長に就任[5]日満産業大博覧会の開催、軍人遺族援護のための富山市軍事義会の組織、工場の誘致などに尽力した[2][5]1940年2月5日に市長を退任した[5]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』757頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『郷土に輝く人びと 第6集』197-202頁。
  3. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』194、196頁。
  4. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、558頁。
  5. ^ a b c 『日本の歴代市長』第2巻、131頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
  7. ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。
  8. ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。
  9. ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
  10. ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
  11. ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 『郷土に輝く人びと 第6集』富山県、青少年育成富山県民会議、1975年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第2巻、歴代知事編纂会、1984年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。