尾張皇子
尾張皇子(おわり の みこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。父は敏達天皇、母は皇后炊屋姫(推古天皇)。竹田皇子の同母弟。尾治王とも表記する。
記録
編集『日本書紀』巻第二十に、皇后広姫亡き後、豊御食炊屋姫尊(のちの推古天皇)を立后した記事に続けて、二人の皇子、五人の皇女が生まれたという記事にのみ、現れる[1]。また、『上宮聖徳法王帝説』の中に、聖徳太子の妃の1人である位奈部橘王(いなべのたちばなのみこ)の父親として登場している[2]。
上記のことより、竹田皇子と並んで有力な皇位継承者であったことが推定されるが、記録の上では、政治面で特別目立った働きをしていない。聖徳太子に娘を嫁がせているのだから、成年までは生存していた可能性は高いが、母の女帝と太子の妃であった娘のように、歴史的な事績を残してはいない。用明天皇2年(587年)7月の丁未の乱の際にも、物部守屋討滅軍に参加したという記録も残されてはいない[3]。