小野美材
平安時代前期の貴族、文人、能書家。小野俊生または忠範の子。官位は従五位下・大内記。勅撰集『古今和歌集』以下に3首入集
小野 美材(おの の よしき)は、平安時代前期の貴族・文人・能書家。参議・小野篁の孫。大内記・小野俊生または大内記・小野忠範の子。官位は従五位下・大内記。
時代 | 平安時代前期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 延喜2年(902年) |
官位 | 従五位下・大内記 |
主君 | 光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 小野氏 |
父母 | 父:小野俊生または小野忠範 |
子 |
忠時 養子:高向利春 |
経歴
編集文章生から仁和2年(886年)文章得業生を経て、寛平4年(892年)対策に及第し、寛平6年(894年)少内記に任ぜられる。この間の元慶4年(880年)には史上初めて穀倉院学問料の支給を受けたともされる[1]。
人物
編集書に卓越し、寛平9年(897年)の醍醐天皇の大嘗会では、悠紀主基屏風の色紙形の清書を行っている。また大内裏の西面三門(談天門・藻壁門・殷富門)の額字を書いたとされる[2]。なお、他の三面は三筆の手による物(南面・弘法大師、北面・橘逸勢、東面・嵯峨天皇)とされており、美材が三筆に比肩する腕前と見られていた様子が窺われる。
また詩文にも秀で、漢詩作品が『本朝文粋』や『菅家後集』に採られるとともに、勅撰歌人として『古今和歌集』に2首、『後撰和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[3]。
官歴
編集『古今和歌集目録』による。