小野崎通亮
幕末から明治期の久保田藩士、国学者、神職、政治家
小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき[1]、1833年4月18日(天保4年2月29日[1][2][3]) - 1903年(明治36年)7月21日[1][2][3][4])は、幕末から明治期の久保田藩士、国学者、神職、政治家。貴族院勅選議員。通称・鉄蔵[2][5][注 1]。雅号・琴廼屋、烟水、九春軒[1][2]。
経歴
編集出羽国秋田郡久保田城下亀ノ丁新町(現秋田県秋田市)で、久保田藩士、郡奉行・小野崎通孝の長男として生まれる[2][5]。平田篤胤と親交があり神道家であった父通孝から神道を伝えられ、吉川忠行の惟神館で和魂洋才を学び、文久3年(1863年)同志と雷風義塾を設立して講師に就任[1][2][5]。慶応4年1月(1868年)藩校明徳館教授兼砲術頭となる[1][2][3][5]。戊辰戦争では吉川忠安らと勤皇を主張して藩論を導き、遊撃隊参謀として秋田戦争に従軍した[2][5][3]。慶応4年8月、南部口を担当し、砲術所総裁・須田盛貞を補佐した[5]。
その後、評定奉行から公議人に転じて上京し、明治2年(1969年)神祇官に出仕し判事試補に就任[1][2][5]。権大史、権少佑を歴任し、明治3年2月(1870年)秋田藩大参事に転じた[4][5]。明治4年(1971年)の廃藩置県により退官し、1873年(明治6年)8月、県社八幡神社の祠官に就任した[2][5]。その後、大教院勤務、神道事務局勤務、教導職権大講義、秋田県神道触頭、教導職取締、神道事務分局長、招魂神祠官、権少教正、神宮第五教区教会長、神宮教四等教監、古四王神社宮司などを務め[2][4][5]、1890年(明治23年)8月、秋田県皇典講究所分所長に就任した[5]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『日本人名大辞典』452頁では鉄造。
出典
編集参考文献
編集- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 第1巻』新人物往来社、1993年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。