小野 俊資(おの としすけ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将毛利氏家臣で長州藩士。

 
小野俊資
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正4年(1576年
死没 明暦4年8月4日1658年9月1日
別名 通称:弥五郎、号:入道深重、深長
主君 毛利輝元秀就綱広
長州藩
氏族 藤原姓光富氏小野氏
父母 父:小野俊久
兄弟 俊資資光粟屋七左衛門
武蔵国住人の娘
資久資道寺戸道益
テンプレートを表示

生涯

編集

天正4年(1576年)、毛利氏家臣で長門国厚狭郡末益名[1]内の30石足を領した小野俊久の子として生まれる。

俊資が生まれる以前、嗣子がいなかった父・俊久は小野俊賢を養子に迎え、永禄10年(1567年10月13日に俊賢へ小野家の家督と鎌倉時代以来の代々の証文を譲与していたが、俊賢が早世したため、俊資が後継となった。

慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの前哨戦として徳川家家臣・鳥居元忠の籠もる伏見城への攻撃が行われた。この戦いに毛利家からは吉川広家毛利元康小早川秀包堅田元慶らが参戦しており、これに俊久も加わったが、伏見城が落城した8月1日に戦死したため、俊資が跡を継いだ。

関ヶ原の戦い後は、輝元の跡を継いだ秀就綱広の2代に仕え、明暦4年(1658年8月4日に死去した。享年83。子の資久が跡を継いだ。

注釈

編集
  1. ^ 現在の山口県山陽小野田市末益。後に厚狭毛利家が居館を構える地となる。

参考文献

編集