小西博之

日本の俳優、タレント

小西 博之(こにし ひろゆき、1959年9月28日 - )は、日本の俳優タレント民間人校長スタークコーポレーション所属。身長は180cm。体重は78kg。血液型はA型。趣味は料理、パソコン、釣り、ガーデニング、サイクリング。特技はボクシング、ゴルフ、スキー、野球、乗馬、合気道。愛称は「コニタン」 [1]

こにし ひろゆき
小西 博之
本名 小西 博之
生年月日 (1959-09-28) 1959年9月28日(65歳)
出生地 日本の旗 日本和歌山県
血液型 A型
職業 俳優
活動期間 1982年 -
公式サイト 小西博之-公式プロフィール
主な作品
映画
はぐれ刑事純情派
テレビドラマ
金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?
バラエティ
欽ちゃんの週刊欽曜日
ザ・ベストテン
テンプレートを表示

来歴

編集

和歌山県田辺市上秋津出身[2]。和歌山県立田辺商業高等学校(現:和歌山県立神島高等学校)卒業、中京大学商学部卒業。中京大学では演劇部に所属し、ステージ付き大教室での稽古中にジャンプして着地した際にステージを踏み抜いたという逸話が残っている。

デビューは、中京大学在学中に出演した中京テレビのローカルバラエティ番組ジョークドキュメントBBS放送局』で、理科教育番組のパロディコーナーの先生役だった。大学卒業後に『中学生日記』のオーディションにも合格している[3]

ジョークドキュメントBBS放送局』における人気ぶりは相当なもので、当地で放送された株式会社名紳(岐阜県岐阜市市橋。紳士服販売)のCMでそのまたパロディが作られるほどだった。この活躍でその後、TBS系列で1982年から放送されたバラエティ番組『欽ちゃんの週刊欽曜日』のレギュラーとして抜擢され、「欽ちゃんファミリー」の一員として人気を博す。同番組内でレギュラーの清水由貴子と『銀座の雨の物語』をデュエットしヒットする[1]

1985年には、TBSの人気音楽番組『ザ・ベストテン』の2代目男性司会者を担当[3]1996年から数回出演したスポーツマンNo.1決定戦では、総合5位の成績を収めたこともあって肉体派の健康優良タレントとしてのイメージもついた[1]

1988年に結婚、2人の男児をもうけるも1998年に別居。2002年ごろから養育費及び慰謝料の支払いを条件として夫人側が離婚調停を申し立てた。後述の手術などの関係もあり手続きが滞ったが、2006年年明けに離婚が成立した。慰謝料の支払いはなかったが、養育費は継続して支払われているという。息子たちとは、2023年1月現在も交流がある[1]

2004年腎臓癌が発見されたが、翌年2月に手術が無事成功し、5月の検査でも転移は認められず克服した[1]。現在(2023年1月)は仕事を行えるまで回復しており、復帰後からその経験を語る講演活動を各地で行っている[2]。また、東京サイクリング協会主催の「東京シティサイクリング」にも毎年ゲストとして参加している。

上記に加え、2009年4月、小西と同じ「欽ちゃんファミリー」の一員だった清水由貴子が49歳で自殺したことを受け、「いのちのうた」プロジェクトを立ち上げてから自殺防止活動も取り組んでいる(後述)。

2022年度から日本航空高等学校通信制課程東京キャンパスの[3]校長を務めている[4][注釈 1]。また、現在はNPO法人「和歌山レスキューサポートバイクネットワーク」の名誉隊長を務め、活動を行っている。

2020年にYouTuber小西博之として『コニチャンネル』を立ち上げ、活動を始めた。

人物

編集

子供時代

編集

生まれた頃から身体が大きく、県から健康優良児に表彰されたこともあったが、幼い頃は身体に反して気が弱くて泣き虫だった。ちなみに「コニタン」という愛称は、元々この頃からのニックネーム[1]。小学4年生の頃、クラスで一番力があることが周りに知られたことで自信に繋がり、強い性格になった[注釈 2]。これによりほどなくして学級委員長や少年野球チームのキャプテンにも選ばれるようになった(本人はこの経験を踏まえて、「子どもって何かのきっかけで大きく変わるんです。親御さんには『ウチの子はダメだ』とは絶対に思わず、『今のあなたが大好き』と言い続けてほしいんです」と語っている)。小学校時代の将来の夢は「ウルトラマンの隊員」[3]

中学校入学後は格闘技(小学校時代に覚えた)に夢中になり、先輩らに誘われて他校との武力闘争に明け暮れる。1年生在学中の夏休み、ついに警察の世話になるが、このとき一人の教師が「私が必ず、この子を更生させます」と頭を下げてくれた。この教師と共に過ごすうち、「私も将来こんな素晴らしい先生になって、荒れる生徒を救ってあげたい」と決心するに至る[3]

中学は野球部に所属して生徒会役員を歴任。「その野球で高校、大学に行って、教師になって帰って来い」と言われる[3]。卒業後、野球の強豪校である田辺商業高校に進学。教師を目指して中京大学に進学。中京大学は野球の名門であったため野球部に入部したが、指導方法が肌に合わず短期間で退部した後、演劇部に移った。|演劇部に入った理由について「教師になったら生徒から面白いと思われる授業をせないかんでしょ? 演劇部でパフォーマンスを身につけたかったんです」と後年語っている[1]

大学生活と芸能界入り

編集

この大学の演劇部には以前から愛知県などの芸能事務所からエキストラへの協力に声がかかっており、本人も色々と仕事を引き受けた。芝居に夢中になったせいで成績が下がり、2年生の途中から学業に専念。教職課程では商業科と社会科を選択し、簿記1級を取得するなど必死に勉強した[1]。4年生の春に教育実習を行ったが、7月頃に突然和歌山県の教員採用がないことを知らされる[注釈 3]。その後は牛丼チェーン店の吉野家でバイトをしながら(深夜帯の店長を任された)、就職浪人生活を送った[1]

『ジョークドキュメントBBS放送局』に出演すると、放送作家からの勧めで萩本欽一に会いに東京のスタジオに訪れた。萩本からコントの稽古の見学に誘われて毎月行くようになったが、ある日スタジオで萩本たちが開いたオーディションに急遽参加。終了後、萩本から『小西、ごめん。今日で終わり』と告げられて名古屋に帰ったが、翌朝の電話で呼ばれてすぐに東京に向かうと萩本から一転合格を告げられた。これについて本人は、「そのオーディションで萩本さんたちから何を聞かれても、体育会系の僕は『はい!』と答えるだけだった。そのやり取りを見て、萩本さんのコントには合わないと思われたんでしょうね。でも翌日東京に呼ばれて行ってみたら萩本さんから「やっぱり合格。来週から木曜日は吉野家休んむんだよ」と告げられた」と回想している。また、不合格から一転合格になった理由について、萩本から後日「オーディションの後、落ちて一番辛い奴(小西)が一番いい笑顔で帰っていったから」と明かされたという[1]

闘病、清水由貴子の死など

編集

2004年の夏ごろから血尿が出るようになり、それまで85kgだった体重がいつの間にか70kgを割った。12月下旬に大量の血尿が出て精密検査を受診したところ、翌年1月に全身に転移する恐れのある末期の腎臓癌を告知された。左腎臓にできた腫瘍は20×13cmとかなり大きく、2月に左脇腹をVの字に約50cm切り開き[1]、リンパを切除するなど大手術だった。復帰後は、様々な場で「命の大切さ」をテーマにした講演や、全国の小中高校で「命の授業」と題した講義も行っている[1]。2007年頃からは、全国の小児病棟や児童施設で慰問活等も行うようになった[注釈 4]

2009年4月、清水由貴子の自殺後、萩本からの助言を受けて[注釈 5]「欽ちゃんファミリー」の代表としてコメントすることになった[1]。清水の突然の訃報に、当初「自殺で死ぬなんて、僕は一生ユッコ(由貴子)を許さない。天国なんかに絶対に行かせない。冥福も祈らない。僕が引き戻してやるから」と激しい口調で語り[注釈 6]、涙に暮れた。この発言により、マスコミから“薄情者”と称されることもあったという[1]

「いのちのうた」プロジェクトでは自殺防止活動に取り組むと同時に、自らが歌うCDの売上を小児がんの支援団体に寄付した[1]。また、2011年の東日本大震災の後、復興支援チャリティーイベント『被災地に届け!いのちのうた』を主催した[1]

その他

編集
  • 演劇部時代のエキストラの仕事では、仮面ライダーショーの怪人役や萬屋錦之介一座の舞台『赤穂城断絶』の斬られ役などをこなした。また、大学時代から就職浪人時代までの間に、ドラマ『中学生日記』に警察官役、教育実習生役、体育教師役など脇役で数回出演している[1]
  • 『欽ちゃんの週刊欽曜日』で全国デビューに次いで、同番組による清水由貴子とのデュエットで歌手デビューも果たした。当時歌番組に多数出演して調子に乗りかけたが、清水が「私たちの仕事はお客様に夢と希望を与えること。その期待を絶対に裏切っちゃいけないの!」とよく叱ってくれたおかげで天狗にならずに済んだという[1]
  • 『ザ・ベストテン』の司会では、デビューしたばかりのジャニーズアイドルグループ・少年隊の初登場第1位の回で「(同じ事務所の先輩グループである)シブがき隊の皆さんです!」と間違えて紹介する一幕があった[注釈 8]
  • 俳優関係のエピソードとしては、渡哲也からは共演者に対する心構えを叩き込まれた。松方弘樹からは、粋できれいな遊び方を教わった。高橋英樹から殺陣の指導を受けたこともある[1]
  • 『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』では若くして亡くなった友人の円谷浩に捧げる意味で、自分の役名を「(日向)浩」に変更してもらった[5]。また8歳のころ『ウルトラマン』を視聴し「僕も地球防衛組織の隊員になりたい」と思っていたため、隊員の役柄を演じる事が出来たのは嬉しいものであったという。小西は以前『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』のナグモ役で『ウルトラシリーズ』に出演経験がありナグモも隊員の役柄である。『烈車戦隊トッキュウジャー』に刑事役でゲスト出演した際にボス(日向浩)のパロディが行われた[6]

スポーツマンNo.1決定戦

編集

スポーツマンNo.1決定戦に第1回芸能人サバイバルバトルから参戦。第2回大会ではLOG相撲でNo.1を獲得し始めて最終種目に進出し、総合5位入賞を果たす。 その後も第6回から第8回大会まで参戦。芸能人大会屈指のパワー系選手といわれていた。

芸能人サバイバルバトル
大会 放送日 総合順位
第1回大会 1996年4月2日 11位
第2回大会 1997年4月2日 5位
第6回大会 2000年3月24日 14位
第7回大会 2000年10月10日・14日 13位
第8回大会 2001年3月23日 12位

出演

編集

テレビドラマ

編集

その他のテレビ番組

編集

映画

編集

Vシネマ

編集

ラジオ

編集

著書

編集
  • 『コニタンの闘病日記』〜すべての人々へ感謝の心を〜(太陽エージェンシー、2005年)
  • 『生きてるだけで150点!』(2017年7月15日、 毎日新聞出版)

ディスコグラフィ

編集

シングル

編集
発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 規格 規格品番
キャニオンレコード
1983年9月21日 A 銀座の雨の物語[注釈 9] 阿久悠 南こうせつ 井上鑑 EP 7A-0316
B 佐藤のB面です -銀座の雨の物語-[注釈 10]
フォーライフレコード
1985年3月5日 A 淋しがりやさ心はいつも 荒木とよひさ 西木栄二 瀬尾一三 EP 7K-172
B うちあけて

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ それまで本人は著書や講演の中で、学校に通う子や不登校の子を別け隔てなく寄り添う発言を行っていた。これに同校全日制及び付属中学校の(2022年当時の)校長が、小西の命の尊さを教える活動に感銘を受けたことから通信制の校長を打診した[1]
  2. ^ 本人によると、妹の誕生直後に遠足に行った際、昼食時に弁当を食べながら「僕お兄ちゃんになったんやで」と喜んでいた。すると、クラスで一番腕力がある友人にふざけて小突かれ、弁当を落としてつい怒って彼の肩を押すとその友人が吹っ飛んだ。周りの生徒から「クラスで一番強いのはコニタン」と認識されるようになったとのこと[1]
  3. ^ 和歌山県教育委員会から手紙が届き、「来春の中高の新入生は1966年の“丙午生まれ”にあたり、全体的に生徒数が減る」[3]との理由で、その年の教員採用はなしと告げられたという[1]
  4. ^ 同年のドラマ『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』で正義のヒーロー(ヒュウガ隊長役)を演じ、「子供たちに夢を与えたい」と思ったことがきっかけ[1]
  5. ^ 萩本から「小西の気持ちさえしっかりしていれば、思ったことを素直に話せばいい」と言われたという。
  6. ^ 後年、同じく「欽ちゃんファミリー」の風見しんごからはこのコメントについて「大病をして生きることにもがいた経験があるコニタンが、(清水の訃報により)悲しみのどん底で悩んで悩んで悩んだ末に選んだ正直な言葉だったと思います」と評している[1]
  7. ^ ジャニーは、この言い間違いが視聴者の間で話題になることを見越し、少年隊のいい宣伝になると考えた模様。
  8. ^ 生放送後、ジャニーズ事務所社長・ジャニー喜多川が近づいてきたため、本人は殴られると思った。しかしジャニーは、小西の前で指をパチンと鳴らして「You good!」[注釈 7]と言って笑って許してくれたという[1]
  9. ^ 清水由貴子とデュエット。
  10. ^ 唄:佐藤B作、天園翔子。

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 「僕の心を支えてくれた欽ちゃんの教え~小西博之」『週刊女性』第87巻第5号、2023年、40-46頁、ASIN B0BTD584BG 
  2. ^ a b 「「命の大切さ」歌に、発表イベント がん闘病から復帰、俳優・小西博之さん」『朝日新聞』2010年12月8日、和歌山・朝刊、31面。
  3. ^ a b c d e f g 小西 2024, p. 12-13.
  4. ^ 仮装大賞3年ぶり復活で欽ちゃんファミリー9人の今!斉藤清六は俳優、倉沢淳美は昨年娘がデビュー、小西博之は日本航空高等学校校長に”. 光文社 (2024年2月12日). 2024年2月12日閲覧。
  5. ^ 「ウルトラギャラクシー大怪獣バトル」『特撮ニュータイプNewtype THE LIVE』第6巻第1号、角川書店、2008年1月1日、130-134頁、全国書誌番号:00121794 
  6. ^ 「TOQGER MAIN STAFF INTERVIEW_04 加藤弘之」『OFFICIAL PERFECT BOOK TOQGER ETERNAL MEMORIES 烈車戦隊トッキュウジャー 公式完全読本』(第1版)ホビージャパン〈ホビージャパンMOOK〉、2015年6月20日、74頁。ISBN 978-4-7986-1031-3 
  7. ^ 「虎の流儀~旅の始まりは尾張 東海死闘編~」・「虎の流儀~激突! 燃える嵐の関門編~」”. 映画「虎の流儀」公式サイト. 2023年9月27日閲覧。
  8. ^ ラジオ「Changeの瞬間~がんサバイバーストーリー」好評放送中 【随時更新】”. 日本対がん協会. 2021年2月26日閲覧。

参考文献

編集
  • 小西博之「皆さんの夢は何でしょうか」『日本教育』第534号、日本教育会、2024年1月1日、12-13頁、全国書誌番号:00094528 

外部リンク

編集