小笠原長円
豊前中津藩4代藩主。忠脩系小笠原家4代。小笠原長章の五男。従五位下信濃守。
小笠原 長円(おがさわら ながのぶ)は、豊前国中津藩4代藩主。忠脩系小笠原家4代。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 延宝4年2月26日(1676年4月9日) |
死没 | 正徳3年10月22日(1713年12月9日) |
別名 | 磯之助、宮内(通称) |
戒名 | 真浄院殿義英宗高大居士 |
墓所 | 福岡県築上郡吉富町広津の天仲寺 |
官位 | 従五位下信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉、家宣、家継 |
藩 | 豊前中津藩主 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 小笠原長章、小笠原長胤 |
兄弟 | 長胤、長宥、梅、長富、源姫、長救、長円 |
妻 | 稲葉正通娘 |
子 | 長邕、長興、小笠原長興養女 |
生涯
編集延宝4年(1676年)2月26日、初代藩主・小笠原長次の長男・長章の五男として生まれる。
元禄11年(1698年)7月28日に兄で第3代藩主の長胤が悪政と乱行を理由に改易された。しかし小笠原氏は譜代の名門であり、藩祖の秀政ら祖先の勤労を評価されて、弟の長円が8万石から4万石に所領を削減された上で家督を継ぐことを許された。
しかし、長円も兄や先々代の長勝と同じように暗愚な人物で、藩財政困窮のために領民に重税を課し、さらに家臣の知行も半減している。元禄11年(1698年)12月25日、従五位下・信濃守に叙位・任官された。宝永6年(1709年)から病気に倒れたと称して藩政を顧みなくなり、そればかりか養生のためとして豪勢な別邸を建ててそこに居住し、以後は女と酒に溺れた生活を送ってますます藩政を混乱させた。
正徳3年(1713年)10月22日に死去した。享年38。跡を長男の長邕が継いだ。