小笠原忠脩
江戸時代初期の武将。信濃松本藩の世嗣。従五位下・信濃守。大坂夏の陣で戦死。小笠原秀政の長男。
小笠原 忠脩(おがさわら ただなが)は、江戸時代初期の武将。信濃国松本藩の世嗣[疑問点 ]。官位は従五位下・信濃守。徳川家康の外曾孫に当たる。
時代 | 江戸時代初期 |
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生誕 | 文禄3年12月25日(1595年2月4日) |
死没 | 慶長20年5月7日(1615年6月3日) |
改名 | 幸松丸(幼名)、忠脩 |
戒名 | 法性寺殿正甫宗中大居士 |
墓所 |
長野県松本市の御殿山 長野県松本市の広沢寺 |
官位 | 従五位下・信濃守 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
藩 | 信濃松本藩世嗣[疑問点 ] |
氏族 | 小笠原氏(秀政系府中小笠原氏) |
父母 | 父:小笠原秀政、母:登久姫 |
兄弟 | 忠脩、忠真、敬台院、保寿院、忠知、松平重直、忠慶、長俊、溝口政房、原昌行 |
妻 | 円照院 |
子 | 齢昭院、長次 |
生涯
編集小笠原秀政の長男として下総国栗橋城にて誕生。元服の際、大叔父でもある2代将軍・徳川秀忠から偏諱を受けて忠脩と名乗った。慶長12年(1607年)、出家した父から家督を譲られる[疑問点 ]。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では小笠原軍を率いて出陣したが、軍費に窮し、困り果てたと言われている。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では父が小笠原軍を率いて出陣した。このとき、忠脩は松本城の守備を任されていたが、幕府に無断で出陣し、父と合流した。これは一つ間違えれば、家康の外曾孫といえども許される行為ではないが、家康は処罰も恐れずに出陣してきた曾孫の忠脩を大いに評価し、従軍を許したという。
天王寺・岡山の戦いで父と共に豊臣軍と戦うも討死した。享年22。
長男の長次が出生したのは忠脩の死の18日後であったため、小笠原家の家督は弟の忠真が継ぐこととなり[疑問点 ]、忠脩の正室・円照院(亀姫)は家康の命で忠真に再嫁した。