小田切政純
大日本帝国陸軍軍人
小田切 政純(おだぎり まさずみ、慶応2年2月12日(1866年3月28日)[1] - 1940年(昭和15年)6月7日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等は正四位勲二等功四級[3]。
生誕 |
1866年3月28日 日本 長野県 |
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死没 | 1940年6月7日(74歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1891年 - 1929年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴・人物
編集長野県の平民小田切与平の長男として生まれる[4]。1900年(明治33年)4月家督を継ぐ[1]。
1891年(明治24年)7月に陸軍士官学校第2期卒業後、翌年3月に陸軍歩兵少尉に任官する[1][5][6]。のち、1902年(明治35年)陸軍大学校第16期を優等で卒業し、歩兵第40連隊附となり、1912年(明治45年)3月に鳥取連隊区司令官・陸軍歩兵大佐となる[1][5]。
そののち、1912年(大正元年)9月に歩兵第39連隊長、1913年(大正2年)8月に第10師団参謀長を経て、1914年(大正3年)8月に在ロシア大使館附武官となり、ウラジオストクに渡りロシアの軍事を調査[1][5]。その功により勲四等功四級を叙勲する[1]。
さらに、1916年(大正5年)8月に陸軍少将、1917年(大正6年)1月に参謀本部附、同年5月に歩兵第15旅団長を経て、1921年(大正10年)6月に陸軍中将に昇進と同時に待命、同年10月に予備役に編入[4][5][7]。1929年(昭和4年)4月に後備役に編入した[3][8]。
栄典
編集- 位階
- 1892年(明治25年)7月6日 - 正八位[9]
- 1895年(明治28年)2月28日 - 従七位[10]
- 1903年(明治36年)3月30日 - 従六位[11]
- 1908年(明治41年)5月11日 - 正六位[12]
- 1912年(明治45年)5月10日 - 従五位[13]
- 1916年(大正5年)9月20日 - 正五位[14]
- 正四位[3]
- 勲章等
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f 『人事興信録』第4版、を11頁
- ^ 『日本陸軍将官辞典』190頁。
- ^ a b c d e f 『陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿』、昭和6年4月1日調。
- ^ a b 『人事興信録』第6版、を16頁
- ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』98頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』96頁。
- ^ a b 『人事興信録』第8版、お29頁
- ^ 『人事興信録』第10版 上、お33頁
- ^ 『官報』第2707号「叙任及辞令」1892年7月7日。
- ^ 『官報』第3498号「叙任及辞令」1895年3月1日。
- ^ 『官報』第5920号「叙任及辞令」1903年3月31日。
- ^ 『官報』第7460号「叙任及辞令」1908年5月12日。
- ^ 『官報』第8666号「叙任及辞令」1912年5月11日。
- ^ 『官報』第1244号「叙任及辞令」1916年9月21日。
- ^ 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
参考文献
編集- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 人事興信所編『人事興信録』第4版、人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録』第6版、人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録』第10版 上、人事興信所、1934年。