小淵の渡し
歴史
編集尾張国と美濃国を大きく隔てていたものは木曽川(尾張川)であった。往古より九瀬の渡し(太炊、鵜沼、気瀬、摩免戸、板橋、食、薭島、市河前、墨俣)の一つに大豆途の渡しがあった。古くは承久の乱に「官軍尾張河沿岸に陣をしき賊軍に備えたり。云々。両軍大井戸、摩豆戸等に戦い官軍敗走す」(吾妻鏡)とあり、また江戸時代に「北山那から美濃の国前途村に至る」(尾張名所図絵)と記されているのが山名の渡しである。この渡場から北山那、南山名を通り、斎藤、柏森、大口町の余野を経て、小牧へ通ずる重要な道路があった。この道路は柏森で旧柳街道(岩倉街道)と交差している。
橋一つない尾張と美濃を結ぶ道路は渡船による以外に方法はなく、小淵の渡しとなって次第に人馬の往来がしげくなった。明治になって、『美濃国各務原近傍実測図』(明治14年)に渡し場とあり、1911年(明治44年)3月には岡田式渡船装置[2]による渡船が許可されている。明治末期から大正にかけては、堤防上に茶店もできるほどであったが、この渡船場も時世の変化により、鉄道の発達、架橋の進展に伴い大正の末期に閉鎖された。さらに宮田用水の水路工事のために、渡船場は跡形もなくなり、わずか堤防からの「下り道」と高札が昔を物語っている。
1974年(昭和49年)8月、扶桑町文化財に指定された。
関連項目
編集脚注
編集参考文献
編集外部リンク
編集- 「小淵の渡し跡」 扶桑町