小林米三
小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日[1] - 1969年2月10日[2])は、京阪神急行電鉄元社長、宝塚歌劇団元理事長。プロ野球球団阪急ブレーブスのオーナーでもあった。
来歴・人物
編集阪急電鉄や宝塚歌劇団の創業者である小林一三の三男として生まれた[3]。・
京都帝国大学経済学部卒業後、1932年に阪神急行電鉄に入社。
1946年に取締役[4]、1951年に専務取締役[5]、1959年に代表取締役社長に就任[6]。
専務時代の1956年に発生した庄内事件では、事件現場となった宝塚線庄内駅に自ら出向き、事態を収拾するため騒ぎを起こした群衆を説得した。
1968年5月から1969年1月まで宝塚歌劇団理事長を務め[7]、2014年には『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰される[8][9]。
1957年から1969年1月まで関西テレビ放送の初代社長を務め、北大阪急行電鉄の初代会長にも就任。阪急梅田駅の東海道本線北側への移設にも着手するが、完成を見ることなく1969年2月に社長在任のまま死去した。
家族
編集長兄・富佐雄は東宝社長を務めていたが、父の後を追うように死去。次兄・辰郎は松岡家の養子となり、辰郎の娘・喜美(小林公平阪急電鉄社長の妻)を養女とした。妻の父は伊東二郎丸。
脚注
編集- ^ 第4回 松岡修造の曽祖父はあの方 系図でみる近現代
- ^ 華麗なるスター・スタッフ列伝:小林米三 ”真実一路”の牧野眞一です!!
- ^ “【昭和39年物語】(15)小林米三と西本監督…奮い立った「道楽息子」(1/2ページ)”. 産経ニュース. (2018年12月7日) 2020年2月27日閲覧。
- ^ 京阪神急行電鉄(株)『京阪神急行電鉄五十年史』(1959.06) 35ページ 渋沢社史データベース
- ^ 京阪神急行電鉄(株)『京阪神急行電鉄五十年史』(1959.06) 41ページ 渋沢社史データベース
- ^ 阪急電鉄の歴代社長 歴代社長
- ^ 『夢を描いて華やかに ―宝塚歌劇80年史―』宝塚歌劇団、1994年9月9日、173頁。ISBN 4-924333-11-5。
- ^ 村上久美子 (2014年1月11日). “宝塚が八千草薫ら殿堂100人を発表”. 日刊スポーツ 2022年6月23日閲覧。
- ^ 『宝塚歌劇 華麗なる100年』朝日新聞出版、2014年3月30日、134頁。ISBN 978-4-02-331289-0。
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