小松原学

日本のサッカー選手

小松原 学(こまつばら まなぶ、1981年4月2日 - )は、群馬県邑楽郡邑楽町出身[1]の元プロサッカー選手、サッカー指導者、スポーツトレーナー。ポジションはフォワード

小松原学
名前
カタカナ コマツバラ マナブ
ラテン文字 KOMATSUBARA Manabu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1981-04-02) 1981年4月2日(43歳)
出身地 群馬県邑楽郡邑楽町
身長 182cm
体重 70kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
ユース
1997 日本の旗 ベルマーレ平塚
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1998-2001 日本の旗 ベルマーレ平塚/湘南ベルマーレ[注 1] 53 (8)
2002 日本の旗 ヴァンフォーレ甲府 8 (1)
2003 日本の旗 FC湘南大磯
2004-2005 日本の旗 群馬FCホリコシ
2011-2013 日本の旗 渋川FCハヤブサイレブン
2016 日本の旗 ブランデュー弘前FC
通算 61 (9)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

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プロ時代

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1998年ベルマーレ平塚ユースからトップチームに昇格し、同年4月11日のセレッソ大阪戦でJリーグ最年少出場記録(当時)を樹立[2]。さらに世代別代表に飛び級で選ばれるも、ケガに泣かされ出場機会には恵まれなかった。

2003年はケガのリハビリも兼ねて、FC湘南大磯でプレーし、翌年群馬FCホリコシに移籍。

2004年シーズン終了後、古巣である湘南ベルマーレから練習参加の誘いがあったためホリコシを退団し、テスト生として参加するも不合格。その後ホリコシに復帰し、アマラオと2トップを組み、攻撃陣を牽引した。

2005年シーズン終了後に自身のホームページで「プロとしてサッカーをするのは今年で最後にします」と言葉を残し、現役を引退。

現役引退後

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現役引退後は、柔道整復師、鍼灸あん摩マッサージ師(はり師きゅう師あん摩マッサージ指圧師)の資格を取得。また地元である群馬(邑楽町)でザスパ草津ジュニア・ユース館林の監督として次世代の指導に携わる。またアーティストやイベント等のトレーナーとしてツアーに同行[2]

2010年に、Jeoサッカークリニックを立ち上げ、代表兼監督、柔道整復師、鍼灸あん摩マッサージ師として小学生、中学生を対象とした青少年育成をメインに考えたサッカー指導を行う[2]。また同年よりJ-OBの活動にも参加する。

2011年からはモンゴルスラムの少年達にサッカーを教えるプロジェクトを立ち上げ、「Jeoサッカークリニック in モンゴル」を各地域で開催する。また同時にモンゴルフットサル選手権に選手として参加、チームはベスト8に進出する。同年には群馬県社会人サッカー1部リーグの渋川FCハヤブサイレブンに選手として復帰。

2012年にはPass鍼灸整骨院を開院。2014年に特定非営利活動法人(NPO法人)Rafaga C.F.(ラファーガフットボールクラブ)を設立。JFA公認B級ライセンスやアスレティックトレーナーの資格も取得した[2]。2016年には当時東北社会人サッカーリーグ1部のブランデュー弘前FCで現役復帰、1シーズンプレーした。

2017年からはプレミアリーグ群馬U-11の立ち上げ運営に尽力、代表を務めている。

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1998 平塚 28 J 3 0 2 0
1999 20 J1 25 4 1 0
2000 湘南 J2 20 4 2 0
2001 5 0 0 0
2002 甲府 9 8 1 -
通算 日本 J1 28 4 3 0
日本 J2 33 5 2 0
総通算 61 9 5 0

代表歴

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  • U-16日本代表(1996年)  
  • U-18日本代表(1997年) 
  • U-19日本代表(1998年)

脚注

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  1. ^ 1999年までは「ベルマーレ平塚」

出典

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  1. ^ Vol.46 ラファーガフットボールクラブ代表/小松原学 | REIBOLA”. REIBOLA | 新しいサッカーメディア (2022年7月20日). 2024年9月22日閲覧。
  2. ^ a b c d 元川悦子 (2020年1月21日). “稲本潤一や中澤佑二も衝撃を受けた元U-19日本代表の天才・小松原学のアグレッシブなセカンドキャリア”. DIME. 2020年1月23日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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