小川とわ
日本の実業家
小川 とわ(1895年10月10日 - 1964年5月25日)は、日本の実業家。位階は従六位。勲等は勲五等。元トンボ鉛筆会長。
おがわ とわ 小川 とわ | |
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生誕 |
1895年10月10日 東京府東京市 |
死没 | 1964年5月25日(68歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 小川春之助(夫) |
子供 |
小川八郎(長男) 小川浩平(二男) 小川隆司(三男) |
親戚 |
小川作太郎(義父) 小川洋平(孫) 小川晃弘(孫) |
生涯
編集1895年(明治28年)10月10日、旧東京市芝区に生まれる。1912年(明治45年)、17歳で小川春之助と結婚。夫の父小川作太郎[4]は鉛筆を作る職人で自前の鉛筆工場を持っていた時期もあり、親族にも鉛筆業者が多かった[5]。
1913年(大正2年)夫、春之助が浅草[6]瓦町(現東京都台東区柳橋)に「小川春之助商店[7]」を開業。当初は文房具類一式を扱っていたが、次第に鉛筆の製造販売に注力した[8]。
とわは会社創業期には経理を手伝う傍ら宣伝広告などを担当した[1][9]。1935年にはとわの人脈を通じて日本劇場(日劇)に緞帳をトンボ鉛筆が寄納して世間の注目を集めた[10][11]。株式会社移行後は常務をつとめて会社経営を手伝い[1]、夫が亡くなったのちは会長となり、社長となった息子に会社経営を引き継いだ[12]。
夫の死後、執筆した著書『蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー』[13]では、本人の人生と不可分だったトンボ鉛筆創成期からの50年の歴史を知ることができる[14]。本を書き上げた後、刊行直前の1964年5月25日に死去。従六位勲五等瑞宝章を追贈された[15]。
夫との間に3男4女をもうけた[16]。長男の八郎、次男の浩平、三男の隆司[17]は順に社長を務め、同族経営が続いている。
参考文献
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 現在、著作権保護期間満了、ただし撮影者不詳。
出典
編集- ^ a b c 『アサヒグラフ』1948年10月27日号 15頁
- ^ “鉛筆「蜻蛉社」のこと”. 毎日新聞. (2016年3月14日) 2020年10月2日閲覧。
- ^ “夫を支えてトンボ鉛筆の躍進に貢献した功績を政府からお認め頂いて、従六位勲五等瑞宝章を追授された。”. sts.kahaku.go.jp. 産業技術史資料データベース. 2020年10月2日閲覧。
- ^ “トンボ鉛筆100年史 page 25/98”. www.tombow.com. トンボ鉛筆. 2020年10月2日閲覧。
- ^ “トンボ鉛筆100年史 | ebook5”. my.ebook5.net. 2020年9月26日閲覧。
- ^ “トンボ鉛筆 屈さぬ精神込めた「勝ち虫」”. 毎日新聞 2020年10月2日閲覧。
- ^ “企業沿革”. ecole-rg.meclib.jp. トンボ鉛筆. 2020年10月2日閲覧。
- ^ “■トンボ鉛筆の発展史”. job.mynavi.jp. マイナビ2022. 2020年10月2日閲覧。
- ^ 蜻蛉日記 73、108頁
- ^ 『トンボ鉛筆100年史』19頁
- ^ 蜻蛉日記 128-131頁
- ^ 蜻蛉日記 7-8頁、219-220頁
- ^ “伊藤眞吉顧問も前のめり!? 鉛筆収集家たちがトンボ鉛筆で鉛筆について熱く語る”. www.ofmaga.com. オフィスマガジンonline. 2020年10月2日閲覧。
- ^ 小川とわ (1964). 蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー. 朝日書院 NDLJP:2503676
- ^ 『トンボ鉛筆100年史』39頁
- ^ 『蜻蛉日記』156頁、『トンボ鉛筆100年史』35、39、58頁
- ^ “鉛筆組合の前理事長でいらっしゃった小川隆司様(㈱トンボ鉛筆取締役名誉会長)”. www.pencil.or.jp. 日本鉛筆工業協同組合. 2020年10月2日閲覧。
- ^ “検索結果書誌詳細”. www.library.pref.osaka.jp. 大阪府立図書館. 2020年10月2日閲覧。
- ^ “史・社史編纂室から>トンボ鉛筆100年史”. www.toppan.co.jp. トッパン年史センター. 2020年10月2日閲覧。
外部リンク
編集ビジネス | ||
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先代 小川作太郎 |
株式会社トンボ鉛筆製作所会長 第2代:1957年 - 1964年 |
次代 (1964年6月、トンボ鉛筆製作所はトンボ鉛筆に社名変更) |