小山 東助(おやま とうすけ、1879年明治12年)11月24日 - 1919年大正8年)8月25日[1])は、衆議院議員公友倶楽部憲政会)、ジャーナリスト教育者。号は鼎浦

小山東助

経歴

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宮城県本吉郡気仙沼町(現在の気仙沼市)出身。宮城県立尋常中学校第二高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学した。尋常中学校では吉野作造と回覧雑誌を発行し、高等学校でも吉野・内ヶ崎作三郎らと雑誌を編集した。大学でキリスト教と政治に傾倒し、海老名弾正本郷教会に関係したほか、島田三郎に私淑した。

1903年(明治36年)に大学を卒業すると、島田が経営する東京毎日新聞社に入社した。その後、東京日日新聞に移り、また早稲田大学講師として倫理学新聞学を担当した。1913年(大正2年)、関西学院高等学部文科長に招かれた。

1915年(大正4年)、関西学院を辞して、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。議員活動のかたわら、横浜貿易新報主筆や東京毎日新聞主筆を務めた。第13回衆議院議員総選挙でも再選されたが、在任中に病のため死去した。

著書

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  • 『社会進化論』(博文館、1909年)
  • 『久遠の基督教』(警醒社、1912年)
  • 『光を慕いて』(警醒社、1913年)

脚注

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  1. ^ 『官報』第2120号、大正8年8月28日

参考文献

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  • 鼎浦会『鼎浦全集 第三巻』鼎浦会事務所、1925年。