富永隼太
富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年6月3日[1])- 1926年(大正15年)10月25日[2])は、明治時代の政治家。衆議院議員(5期)。
経歴
編集肥前大村藩領彼杵郡大村(長崎県東彼杵郡大村、大村町を経て現大村市)に生まれる[1]。生家は農業を営んだ[1]。幼くして漢学と英学を修めた[1]。1882年(明治15年)から8年間に渡り長崎県会議員を務め、その間、常置委員、徴兵参事員、所得税調査委員、学務委員などを歴任した[1]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では長崎県第1区から出馬し当選[3]。第3回、第4回、第5回、第6回総選挙でも当選し衆議院議員を通算5期務めた[4]。
脚注
編集- ^ a b c d e 山崎 1901, 111頁.
- ^ 衆議院、参議院 編 1962, 334頁.
- ^ 衆議院、参議院 編 1962, 333-334頁.
- ^ 衆議院、参議院 編 1962, 333頁.
参考文献
編集- 山崎謙 編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。