宿屋光則
宿屋 光則(やどや みつのり)は、鎌倉時代中期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 光則→最信(法名) |
別名 | 通称:左衛門尉、左衛門入道 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 北条時頼→時宗 |
氏族 | 宿屋氏 |
父母 | 父:宿屋行時 |
略歴
編集『吾妻鏡』では、弘長3年11月22日(1263年12月24日)、北条時頼の臨終の際、最後の看病を許された得宗被官7人の中の一人に挙げられる。この時には既に出家していた。
光則は日蓮との関わりが深く、文応元年7月16日(1260年8月24日)、日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、寺社奉行として日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している[1]。また、日蓮の書状には文永5年8月21日(1268年9月29日)、10月11日 (1268年11月16日)にも北条時宗への取次ぎを依頼する書状を送るなど、宿屋入道の名前で度々登場している。同8年(1271年)、日蓮が捕縛されると、日朗、日真、四条頼基の身柄を預かり、自身の屋敷の裏山にある土牢に幽閉した。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として光則寺を建立した。
脚注
編集- ^ 『史料綜覧』第5編之905 49頁
出典
編集- 『亀山天皇紀』
- 『吾妻鏡』
- 北条氏系譜人名辞典(新人物往来社)