宮﨑 充登(みやざき みちと、1978年9月6日 - )は、和歌山県岩出市根来出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

宮﨑 充登
2008年6月27日(阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県岩出市
生年月日 (1978-09-06) 1978年9月6日(46歳)
身長
体重
181 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2006年 希望入団枠
初出場 2007年3月31日
最終出場 2008年8月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

経歴

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プロ入り前

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智弁和歌山高時代、1996年には連続して甲子園に出場。春はチームは準優勝するも2年の髙塚信幸がエースで登板機会が無く、夏は初戦にリリーフ登板するも敗退。高校時代のMAXは142km/h。その後本田技研工業に入社して鈴鹿野球部に所属。1999年シドニーオリンピック代表候補選手としてプロキャンプに派遣され、広島東洋カープのキャンプに参加した。

広島にも在籍していた吉本亮コーチの助言のもと、フォームをスリークォーターに変更してから球速が150km/h以上を記録するようになり、キレも増したことから遅咲きながらプロ入りへの道が拓けた。

2006年11月6日、鈴鹿市内で記者会見し広島東洋カープ入りを表明。広島が希望枠(逆指名)で選手を獲得するのは2002年永川勝浩投手以来4年ぶりとなる。会見では「ストレートで打者を抑えていく投手になりたい。2桁は勝ちたい」と意気込む。11月21日、大学生・社会人ドラフト終了後に広島と仮契約を結ぶ。入団時既に妻子持ちで、プロ野球では珍しい子連れ入団であった。

プロ入り後

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2007年3月31日、開幕2戦目の阪神タイガース戦でリリーフとして初登板。同点の7回裏に登板し打者2人を続けて打ち取るも、四球と長打で2アウト二・三塁のピンチを作り降板。後を継いだ佐竹健太が2連続四球で失点し、敗戦投手となる。プロ2戦目の4月4日の横浜ベイスターズ戦では同点の6回表に登板。村田修一にプロ初被弾するも、直後に嶋重宣、代打前田智徳のタイムリーによって試合をひっくり返し、プロ初勝利を挙げた。その後4戦連続してリリーフ失敗し、防御率10点台で二軍に落とされた。しかし二軍で課題の落ちるボール(フォーク)を習得、フォームを調整し、約1ヵ月後に再び一軍昇格。先発ローテーションに入ってからはまずまずのピッチングを続け、9月29日の対阪神最終戦(阪神甲子園球場)では、自己最多となる7回2/3を2失点で投げ、先発初勝利。先発にリリーフにと重宝されて31試合に登板し、3勝を挙げた。

2008年、前年の秋季キャンプから投球スタイルの変更に取り組み、自慢の球威を落として制球力向上を図った。オープン戦ではまずまずの投球で開幕一軍で先発ローテーションの5番手に入った。しかし、先発の働きが出来た試合はほとんどなく、先発としては1勝も出来なかった。制球力が向上したとは言い難く、球威を落とした分かえって痛打されることが多くなった。また、球数が100球に近づく辺りから球威や制球の低下のみならず、明らかにフォームが崩れるなど先発投手としてのスタミナが無いことも露呈した。シーズン後半には、前田健太齊藤悠葵ら他の若手先発投手の活躍に押し出される形で二軍に降格。1年目の成績から、ほとんど全ての数字を下げた。

2009年は5月に一軍に登録されたものの登板の無いまま二軍へ降格。再昇格もなく3年目で初の一軍出場が無いシーズンとなった。二軍では先発ローテーションを任されたが、防御率5.49は規定投球回数に達した投手ではリーグ最下位だった。同年のオフに、背番号が16から54へと変更になった。2010年2011年も二軍では登板したものの一軍戦に出場することはできず、2011年10月13日球団より戦力外通告を受け[1]、現役を引退した。

現役引退後

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2014年から、ホンダ鈴鹿在籍時の監督でもあった高橋博明が監督を務める永和商事ウイングで投手コーチを務める。

2016年学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となった[2]

2020年限りで永和商事ウイングが無期限休部となったため、コーチを退任した[3]

2021年よりルネス紅葉スポーツ柔整専門学校のコーチに就任[4]2023年より監督に就任し[4]、同年9月30日限りで退任した[5]

選手としての特徴

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スリークォーター気味のフォームから繰り出すMAX153km/hのストレートと140km/h台の高速スライダーが武器。他の球種はフォークシュートカーブ[6]

スライダーとシュートは、スリークォーターにフォーム改造したことによって切れが増した。ただ、フォークは制球力が悪く、ほとんど使っていなかった。プロ入り直後の投球内容の悪さから落ちるボールはやはり不可欠だということで精度を上げた。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
2007 広島 31 7 0 0 0 3 5 0 5 .375 314 72.2 74 11 26 3 5 45 1 0 41 39 4.83 1.38
2008 12 9 0 0 0 1 6 0 0 .143 222 47.0 55 4 25 4 6 21 2 0 38 36 6.89 1.70
通算:2年 43 16 0 0 0 4 11 0 5 .267 536 119.2 129 15 51 7 11 66 3 0 79 75 5.64 1.50
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

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投手記録
打撃記録
  • 初安打:2007年9月29日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、4回表に福原忍から中前安打

背番号

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  • 16 (2007年 - 2009年)
  • 54 (2010年 - 2011年)

脚注

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  1. ^ 来季の選手契約について”. 広島東洋カープ (2011年10月13日). 2011年10月13日閲覧。
  2. ^ 元ヤクルト宮本慎也氏ら132人が学生野球資格回復 - 大学・社会人”. 日刊スポーツ (2017年2月8日). 2017年2月8日閲覧。
  3. ^ 永和商事野球部が無期限休部 新型ウイルス拡大で活動困難 三重”. 伊勢新聞 (2020年7月29日). 2020年7月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月26日閲覧。
  4. ^ a b 硬式野球専攻”. ルネス紅葉スポーツ柔整専門学校. 2021年11月22日閲覧。
  5. ^ 監督就任について(ご挨拶)”. ルネス学園 硬式野球部. 2023年10月17日閲覧。
  6. ^ 白夜書房の隔月刊誌「野球小僧」2006年12月号

関連項目

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外部リンク

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