宮崎利秀
日本の教員で俳人
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来歴
編集群馬県伊勢崎市に生まれる[1]。生後すぐに埼玉県妻沼町(現・熊谷市)に転居した[1]。
熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1937年卒業)を経て、横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)を卒業した[1]。熊谷中学校では金子兜太と同窓だった[1]。1942年に東京工業大学機械工学科を卒業すると、陸軍兵技将校として相模造兵廠監督課に勤務した[1]。満州派遣されている際に敗戦となる[1]。
敗戦後は占領軍の英語通訳を務めながら、1946年に『東京ジョー』を刊行した[1][2]。
その後英語教師として、神奈川県立上溝女子高等学校(現・神奈川県立上溝高等学校)、橋本農学校、桜美林学園、相模原市立田名中学校に勤めたが、リウマチに罹患、1951年に帰郷して母校の熊谷高等学校に勤めた後、1957年に埼玉県立浦和高等学校に転任し、俳句『あざみ』の初代編集長となる[1]。
没後の1983年3月に、妻沼の大我井神社境内に句碑が建立された[3]
著書
編集- 『句集 星の微笑』