宣慈皇后
宣慈皇后(せんじこうごう、? - 993年)は、後周の世宗柴栄の2番目の皇后。姓は符氏。最初の皇后であった宣懿皇后の妹で、小符皇后(しょうふこうごう)とも呼ばれる。宋代には太祖(趙匡胤)により周太后(しゅうたいごう)と呼ばれた。太祖の弟太宗の妻の符氏(太宗の即位前に死去して懿徳皇后と追号された)の姉でもある。
符皇后 | |
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後周の皇后 | |
在位 | 959年 |
別称 |
宣慈皇后 周太后 |
死去 |
993年 |
配偶者 | 世宗 |
父親 | 符彦卿 |
生涯
編集陳州宛丘県の人。魏王符彦卿(符存審の四男)の次女。姉の宣懿皇后が崩じた後、顕徳6年(959年)6月に皇后に立てられた。10日後、柴栄も崩じた。新たに即位した柴栄の子の柴宗訓(恭帝)が幼少のため、符氏は皇太后として垂簾聴政し、范質、王溥、趙匡胤らが補佐した。
陳橋の変後、趙匡胤を皇帝として宋が建てられると、符氏は西宮にうつされたが、周太后を号し、生活待遇は変わらなかった。柴宗訓は鄭王に封じられて房州に移され、21歳で薨去した。周太后は出家し、「玉清仙師」を称した。淳化4年(993年)10月、崩じた。夫の諡を重ねて「宣慈」と諡され、宣懿皇后の陵に従葬された。