宣公 (魯)
宣公(せんこう)は、春秋時代の魯の第21代君主。名は俀(たい)または倭(い)[2]。文公の子で、文公の後を受けて魯国の君主となった。在位18年。
宣公 姫俀 | |
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魯 | |
第21代公 | |
王朝 | 魯 |
在位期間 | 前608年 - 前591年 |
都城 | 曲阜 |
姓・諱 | 姫俀 |
諡号 | 宣公 |
生年 | 不詳 |
没年 |
宣公18年10月28日[1] (前591年9月26日) |
父 | 文公 |
母 | 敬嬴 |
后妃 | 穆姜 |
生涯
編集文公は正夫人の姜氏との間に2人の公子があったが、東門襄仲(公子遂、荘公の子)が文公の第二夫人の敬嬴と私通しており、姜氏の2人の公子を殺して敬嬴の子の俀を立てた。姜氏は実家の斉に帰った[3]。当時はすでに三桓氏が政治の実権を握っており、襄仲の子の公孫帰父は晋の力を借りて三桓氏を除こうとしたが、晋に滞在中に宣公が亡くなったために失敗した。公孫帰父は斉に逃れた[4]。
脚注
編集参考文献
編集- 陸峻嶺、林幹合編、『中国歴代各族紀年表』、1982年、台北、木鐸出版社