安見元勝
安見 元勝(やすみ もとかつ)は、江戸時代前期の加賀藩士。砲術家。初め右近、のちに隠岐と称した。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛永15 - 19年(1638 - 1642年)頃 |
別名 | 通称:右近、隠岐 |
主君 | 前田利長、利常 |
藩 | 加賀藩 |
氏族 | 安見氏 |
父母 | 勝之 |
兄弟 | 元勝、伊織 |
妻 | 佐久間信栄の娘[1] |
子 | 隠岐、前田直正室(養女?) |
略歴
編集安見勝之の長子として生まれる[2]。父・勝之は慶長5年(1600年)より加賀前田家に仕えて6000石を領し[2][3]、父の没後、元勝はその跡を継いだ[2][4]。勝之は安見流砲術の祖である安見右近丞一之[5]と同一人物と見られ[6]、元勝もまた、田付景澄・稲富祐直とともに砲術の三傑と称されるほどの名人であった[7][4]。
大坂の陣では主君・前田利常に従い、足軽頭として鉄砲隊を率いた[2]。左手(または右手)の3指を失うなどの重傷を負い、敵にあわや首を取られそうになるも味方に助けられ生還[8][9]。家臣らは敵の首13を取った[8]。この功によってか14000石に加増された[8][3](元勝本人は1万石で与力が4000石ともいう[10])。
寛永2年(1625年)、森右近大夫忠広と同じ名を避けるため、右近から隠岐に改称した[2][11]。
寛永10年(1633年)または同13年(1636年)、能州島(能登島)へ配流され、5、6年の内に病死した[12][13]。主君から覚えめでたい元勝が配流に至った理由は不明で、皆怪しんだという[14][10]。
弟・伊織は1000石を知行し、その子・伊織(二代目)がそれを引き継いだが、のち高野山に入り僧となった[7][10]。また元勝の子も隠岐と名乗ったが、父と同じく配流され、隠岐の子・与左衛門は4代藩主・綱紀に仕え300石を領した[7]。その子・瀬兵衛は200石を知行し、以後子孫はその禄を襲った[15]。
人物・逸話
編集登場する作品
編集脚注
編集- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五百三十一(『寛政重脩諸家譜 第3輯』國民圖書、1923年、865頁)。
- ^ a b c d e 永山 1899, 12巻30丁表.
- ^ a b 森田 1934, p. 40.
- ^ a b c d 森田 1934, p. 42.
- ^ 宇田川武久『鉄砲と戦国合戦』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー146〉、2002年、59、173頁。ISBN 978-4-642-05546-8。
- ^ 馬部隆弘「牧・交野一揆の解体と織田権力」『由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に』勉誠出版、2019年、650-651頁。ISBN 978-4-585-22231-6。
- ^ a b c d 永山 1899, 12巻34丁表.
- ^ a b c 永山 1899, 12巻30丁裏.
- ^ 森田 1934, pp. 42–43.
- ^ a b c d 森田 1934, p. 41.
- ^ 森田 1934, pp. 41–42.
- ^ 永山 1899, 12巻30丁裏–31丁表.
- ^ 森田 1934, pp. 40–41.
- ^ 永山 1899, 12巻31丁表.
- ^ 永山 1899, 12巻34丁表–34丁裏.
- ^ 森田 1934, p. 43.
- ^ 永山 1899, 12巻32丁裏.
- ^ a b 永山 1899, 12巻31丁裏.
参考文献
編集- 永山近彰『加賀藩史稿 第11巻 列伝9 第12巻 列伝10』尊経閣、1899年 。
- 森田平次『金沢古蹟志 第九編』金沢文化協会、1934年。 - 金沢文化協会出版物/金沢市図書館
外部リンク
編集- “古文書から見えた私部城 VOL.10” (PDF). 広報かたの 平成31年1月1日号. 交野市. 2019年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月31日閲覧。