安藤直之
安藤 直之(あんどう なおゆき)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本(寄合)。官位は従五位下・伊予守。石高は4535石。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛保2年12月22日(1743年1月17日) |
死没 | 文化2年8月10日(1805年9月2日) |
改名 | 大河内祝嘏、安藤直之 |
別名 | 大河内将曹、安藤木工之助、彦四郎(通称) |
戒名 | 源樹院殿直誉騰山誼純大居士 |
墓所 | 東京都千代田区麹町の栖岸院 |
官位 | 従五位下・伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 駿府城代 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
氏族 | 大河内松平氏、安藤氏 |
父母 |
父:松平信祝、母:小林氏娘狭妻 養父:安藤直元 |
兄弟 | 松平信復、中川久貞、松平正温、翁之丞、直之、多代、伊代、得寿、清涼院、喜尾、兼、八十、光、幸、郁、参、賀久、皆 |
妻 | 安藤直元の娘 |
子 |
直温、保之、直則、武藤安存、直與、 斎藤利道室、酒井忠徹室 |
生涯
編集寛保2年(1742年)12月22日、遠江国浜松藩主・松平信祝の五男として江戸にて誕生した(幕府には元文5年(1740年)生まれと届ける)。同族である上野国高崎藩主・松平輝高の仮養子となっていたが、輝高の実子が成長して丈夫届を幕府に提出したため、宝暦4年(1754年)7月に解消された。宝暦6年(1756年)2月23日に250石を与えられ、三河国吉田藩谷中下屋敷の山之屋形へ引越す。
明和3年(1766年)8月11日に旗本・安藤直元の婿養子となり、直之と名乗る。明和4年(1767年)3月19日に初めて10代将軍・家治に拝謁した。明和6年(1769年)4月15日、直元の隠居により家督を相続した。明和8年(1771年)3月27日に中川御番、安永2年(1773年)12月12日に火消役となる。同年同月16日、布衣の着用を許される。安永9年(1780年)11月15日に百人組頭、寛政4年(1792年)12月24日に小姓組番頭となる。同年同月28日、従五位下・伊予守に叙任される。寛政9年(1797年)6月5日に西丸書院番頭、寛政10年(1798年)12月10日に書院番頭となる。享和3年(1803年)閏1月30日に大番頭となり、二条在番を勤める。文化2年(1805年)2月29日に駿府城代となり、同年8月11日に在職のまま駿府で病死した。享年64(公的には66)。
系譜
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』第17巻
- 『豊橋市史』第6巻