安東洙(アン・ドンス、朝鮮語: 안동수, ロシア語: Ан Дон Су, 1920年8月6日 - 1950年7月6日)は、ソビエト連邦出身の朝鮮民主主義人民共和国軍人。ロシア名はヴラジーミル・スチェパーノヴィチ・アンロシア語: Владимир Степанович Ан)。

略歴

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1920年、沿海州に生まれたとも[1]、若い頃、両親とともにソ連へ移住したともいう[2]。1937年、ウズベクの集団農場へ追放された[1]タシュケント近郊のチルチク地区でトラクター運転手であった[3]。1947年、短期間の軍事教育を受けた後に朝鮮半島へ派遣され[1]、中央保安幹部学校の教官、人民軍新聞の主筆などを務める[2]

1950年、第105戦車旅団文化副旅団長として朝鮮戦争に参戦[2]。312号戦車に乗車し、ソウルへ最初に突入した[4]。同年7月、烏山の戦いで戦死[2][注釈 1]。死後、朝鮮民主主義人民共和国英雄の称号を得る[2][4]

当時第105戦車師団政治軍官(上尉)だった呉基完[注釈 2]は「もし安東洙政治文化副師団長が戦死していなかったら、柳京洙師団長が階級章を捨て私服を着たまま後退するようなことは決して起こらなかっただろう」と証言した[7]

注釈

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  1. ^ 呉基完は水原南方で搭乗していた戦車に手榴弾が投げられ爆死したと証言している[5]。烏山は水原の南方に位置する。
  2. ^ 1950年3月、金日成総合大学卒業。農林省直属中央幹部学校教務主任を務め、民族保衛相崔庸健の命令で第105戦車師団政治文化宣伝員となる。1954年、中央アジアのソ連系朝鮮人コミュニティで活動。1955年から金一の秘書を務め、1963年まで農業相韓典鐘の下で働いた[6]

脚注

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  1. ^ a b c ШИН, Алексей (2015), К 95-летию Ан Дон Су, ЕДИНСТВО, pp. 47-51, http://www.arirang.ru/archive/edinstvo/2015/Edinstvo.2015.08.pdf 2018年12月29日閲覧。 
  2. ^ a b c d e “북한의 `공화국영웅` 안동수”. 통일뉴스. (2002年). http://www.tongilnews.com/news/articleView.html?idxno=19525 2018年12月29日閲覧。 
  3. ^ アンドレイ・ランコフ 著、下斗米伸夫、石井知章 訳『スターリンから金日成へ 北朝鮮国家の形成1945~1960年』法政大学出版局、2011年、136頁。 
  4. ^ a b ШИН, КЛАРА (2012), ПАМЯТНЫЕ ВСТРЕЧИ С ВЕЛИКИМ ВОЖДЕМ КИМ ИР СЕНОМ, ЕДИНСТВО, http://www.arirang.ru/news/2012/12039.htm 2018年12月29日閲覧。 
  5. ^ “(68)대전의 25시(7) 미 제24사단의 혈투(1) 「6·25」20주…3천여의 증인회견·내외자료로 엮은 다큐멘터리 한국전쟁 3년”. 中央日報. (1970年9月4日). https://news.joins.com/article/1254109 2019年5月30日閲覧。 
  6. ^ 우동현 (2016) (PDF). 1945~1950 년 재북 소련계 조선인의 활동과 성격. ソウル大学校大学院. p. 3. http://s-space.snu.ac.kr/bitstream/10371/132215/1/000000132671.pdf 2019年6月3日閲覧。. 
  7. ^ 고재홍 (2004), “6.25전쟁기 북한군 총정치국의 위상과 역할”, 군사 (국방부군사편찬연구소) (53): 143-180, https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART000954728 2019年5月29日閲覧。