安東家忠
安東 家忠(あんどう いえただ[10])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戸次氏、立花氏の家臣。戸次、立花四天王の一人。道雪七家老の第四座[11]。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永正5年(1508年)? |
死没 | 天正10年8月21日(1582年) |
改名 | 連康[1]→家忠→雪窓/雪宗[2][3](号) |
別名 | 蔵人、紀伊入道、宗忠[4] |
戒名 | 前紀州太守雪窓常舟居士 |
墓所 | 立花山下筵内医王寺 |
官位 | 蔵人・紀伊介(受領名) |
主君 | 戸次親家→鑑連 |
氏族 | 藤原姓安東氏 |
父母 | 父:安東連末 |
兄弟 | 家忠、家貞[5]、家久[6] |
妻 | 戸次親家娘・菊姬[7] |
子 | 連実、連善[8]、連忠[9]、由布惟定室 |
出自
編集先祖の安藤秀幸(伊賀守)は源頼朝より恩賞として安藤氏から安東氏への改名を許可され、安東伊賀守と称し、建久7年(1196年)に大友能直に御供して下向する。その子の兵部丞が戸次重秀の所領に居住し、子孫は戸次氏の家臣となった[12][13][14][15][16][17]。
生涯
編集はじめ、豊後国の戦国大名大友氏の家臣・戸次親家に仕える[14]。
親家から重用され、家老を命じられ、親家の一字を拝領、親家の娘(立花道雪の姉)も娶った。また、親家の子・鑑連(後の道雪)からも重用され、笹丸内双雀の家紋[18]と紀伊介の通称と盛高槍12本を拝領される[19][20]。
天文23年(1554年)、大友宗麟の命を受け、鑑連に従い小野信幸と共に菊池義武の謀殺に参与し、感状も得た[21]。 弘治3年(1557年)7月7日~28日の秋月文種討伐、永禄10年(1567年)7月7日に高橋鑑種討伐、永禄11年(1568年)7月4日に立花鑑載討伐[22]、永禄12年(1569年)5月18日対毛利軍多々良浜の戦い[23]など、 戦場に赴くこと二十余回皆功あり、道雪から「武勇絶倫の猛将」と評された[24][16]。また、家忠が剃髪すると道雪の「雪」の一字を賜る[19][20]。
元亀元年(1570年)、鑑連が立花氏名跡を継いで立花山城に移ると、戸次氏家臣は藤北に残留する者と立花山城に移る者に分かれたが、家忠は立花山城移転に御供する[25][26]。
子・連実は永禄10年(1567年)に戦死した[27]ため、家忠の隠居に伴い孫の連直が安東家の家督を相続するが、隠居後も家老の加判に名を連ねた。
『柳河藩享保八年藩士系図』の立花八次郎系譜によれば、天正9年(1581年)に高橋鎮種(後の高橋紹運)が子の立花宗茂を立花氏養子に出す際に立花氏家臣に出した覚に「安東紀伊入道」の名が見える。また、『柳河藩享保八年藩士系図』の堀善右衛門系譜に掲載される天正14年(1586年)の連署知行打渡状の家老の連署の中に「安東紀伊入道雪貢」の名が見える。しかし、この頃の立花家老としての安東家は、家督を継いだ若年の連直を家忠の三男・連忠[28]が連直の後見人となって名代や輔佐役を勤め、書状などの署名を行っている。そのため、家忠はこの時点に既に死去したとみられている[29]。
脚注
編集- ^ 『安東家系図』には初は連康、親家より家字を賜る。
- ^ 『安東家系図』には、道雪公より紀伊介と改らる、雪の字を賜り雪窓と号す、又雪宗とも。
- ^ なお『柳河藩享保八年藩士系図・上』では誤記なので入道号を雪貢とも称したとする、実に雪貢は家忠の三男安東連忠の号とする『安東家系図』、中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P39
- ^ 中野等『立花宗茂』P18、『筑後将士軍談・中卷』P26。
- ^ 和泉守、主膳、子に秀継。
- ^ 周防守、弥太兵衛、子に家栄、範久、宗定、幸貞。
- ^ 道雪の姉で法名・繁林宗昌大姉旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕
- ^ 『安東家系図』より。なお『柳河藩享保八年藩士系図』には安東連善の名が見られない。舎人允、常陸介、雪空。
- ^ 安東助八郎、孫兵衛、紀伊守、雪貢
- ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P69
- ^ 一說は家忠の甥・安東家栄は七家老第四座、家忠は第七座。
- ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 立花(安東) P.137
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)解説 57 立花(脩)家文書 P.23。
- ^ a b 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.39
- ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十二)安東常久小傳 P.245頁
- ^ a b 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十六) 安東連直小傳 P.248頁
- ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十四節 柳川人物小伝(四)安東家忠 899頁
- ^ 江戸時代に立花忠茂の継室の実家である仙台藩伊達氏と類似した家紋だったので安東家は家紋を変更した。
- ^ a b 『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 立花(安東) P.138~139
- ^ a b 『安東家系図』
- ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.10~12
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)119 由布(功)家文書 六 大友宗麟袖判軍忠一見状 永禄十一年七月四日立花鑑載被討果、彼城落去之砌、戸次伯耆守鑑連手之衆或分捕被疵粉骨、或戦死忠儀之次第、着到銘々加披見訖 P.354~357。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三二 大友宗麟軍忠一見状 永禄十二年五月十八日、立花表於敵陣、長尾岸渥防戦之砌、戸次伯耆守鑑連親類・与力・被官、或分捕高名被疵、或戦死之着到、銘々加披見訖、 P.346~348。
- ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十四節 柳川人物小伝(四)安東家忠 899~900頁
- ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.39~40
- ^ 『安東家系図』
- ^ 『柳河戦死者名譽錄』(七)筑前寶滿山 永禄十年七月七日 P.4
- ^ この時、安東紀伊入道雪貢の名を乗った。家忠の「安東紀伊入道」の名と似ているため、混同や誤記する状況がある。
- ^ 中野等『立花宗茂』P22、23、48
出典
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