安原政雄
安原 政雄(やすはら まさお、明治43年(1910年)10月13日[1] - 没年不明)は、日本のヤクザ。暴力団三代目山口組若頭(後に舎弟に直った)。安原会会長。通称マンマン。兄の安原武夫は三代目山口組で七人衆の一人にかぞえられた。
やすはら まさお 安原 政雄 | |
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生誕 |
1910年10月13日 日本・兵庫県神戸市 |
死没 | 没年不明 |
別名 | マンマン |
出身校 | 尋常小学校 |
職業 | 暴力団組長 |
活動期間 | - 1967年12月15日 |
団体 | 山口組 |
肩書き |
三代目山口組若頭 安原会会長 |
家族 | 安原武夫(兄、三代目山口組七人衆) |
来歴
編集兵庫県神戸市で鉄工所工員の四男として出生。尋常小学校卒業後に不良となり、兄の武夫と共々二代目山口組・山口登組長の元へ出入りするようになって、若衆となる。
昭和21年(1946年)に田岡一雄が山口組三代目を襲名すると、兄・武夫とともに田岡の若衆となる。この時、山口登の舎弟だった森川盛之助や湊芳次が田岡の舎弟に直り、また、岡精義(後の山口組七人衆)[2]も田岡一雄の若衆(後に舎弟)になっている。また同年1月には小料理屋「鈴屋」で、山本健一(後の三代目山口組若頭)に盃を与え、自らの若衆としている[3]。
昭和25年(1950年)に山田久一の跡を継ぎ若頭となるが、昭和30年(1955年)2月に武夫が田岡によって安原運輸の社長に据えられ、相前後して自らは若頭の職を地道組・地道行雄組長に譲って舎弟に直った。この頃、田岡の港湾事業は磐石なものとなり、山口組興行部のしのぎとともに、山口組が全国展開できるような経済力を持てるようになった。
昭和36年(1961年)5月に山本や美能幸三の仲介で広島市の打越会/打越信夫組長と兄弟盃を交わし、第二次広島抗争の切っ掛けを作る。昭和40年(1965年)からの山口組に対する第1次頂上作戦では、昭和41年(1966年)5月3日に兄・武夫が山口組の企業舎弟/青井照日出らとともに山口組から脱退し、自身も昭和42年(1967年)[1]12月15日にヤクザからの引退を表明、安原会を解散した。
エピソード
編集- 兵庫県警『山口組壊滅史』には、当時田岡よりも知名度のあった安原について、次の様なエピソードがある。戦後無名の三代目組長を諸方の旅館や温泉に同行し、人目に付くように自ら田岡の背中を流し『安原ほどの者に背を流させているのは誰だ』『あれが三代目だそうな』と噂を流して、田岡を立てた。
脚注
編集参考文献
編集- 飯干晃一『山口組三代目・〈1,野望篇〉』角川書店〈角川文庫〉、1989年9月、ISBN 4-04-146421-8
- 『山口組50の謎を追う』洋泉社、2004年、ISBN 4-89691-796-0
- 劇画
- 原作:溝口敦・脚色:笠井和弘・劇画:ももなり高『血と抗争!菱の男たち 1』竹書房、2002年-2003年
- 『血と抗争!菱の男たち 1』2002年、ISBN 4-8124-5658-4
- 『血と抗争!菱の男たち 2』2003年、ISBN 4-8124-5764-5
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