安井 雅一(やすい まさかず、1874年明治7年〉8月16日[1] - 1953年昭和28年〉6月20日[1])は、明治時代から昭和時代前期の政治家医師大日本帝国陸軍軍医愛媛県松山市長。

経歴・人物

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松山城下出淵町で生まれる[1]。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、1898年(明治31年)第三高等学校医学部(現・岡山大学医学部)を卒業し、志願兵として歩兵第22連隊に入隊する[1]1901年(明治34年)軍医少尉に進み、日露戦争に応召して旅順攻囲戦に参加[1]1905年(明治38年)軍医中尉に進級した[1]

1908年(明治41年)産婦人科医を開業し、1923年大正12年)松山医師会長に就任[1]1932年(昭和7年)には松山脳病院(現・一般財団法人創精会 松山記念病院)を設立する[1]1935年(昭和10年)4月、医師会長に就任し、1948年(昭和23年)3月の医師会の改組まで在任した[1]。その間、県国民健康保険組合連合会理事、日本医師会理事などを歴任した[1]

1947年(昭和22年)4月10日、公選初代松山市長に就任し、戦災復興事業、新制中学校の建設、財政再建などに尽力[1][2]1951年(昭和26年)4月、任期満了退職した[1]

ほか、山果と号し俳句を能くした[1]

脚注

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