孝懿皇后(こういこうごう、1147年 - 1191年)は、の皇太子完顔允恭(顕宗)の正妃。章宗の母。姓は徒単氏(とぜんし)。

生涯

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徒単貞の娘[1]。落ち着いた性格で、やり手の女性だったという。

徒単貞は迪古乃(後の海陵王)の同母妹と結婚し、熙宗を弑逆して海陵王を擁立する企てに加担した。世宗が即位すると、徒単貞は世宗に謁見し、帰順した。世宗は満足した。

大定4年(1164年)、皇太子允恭(後年、顕宗の廟号を追贈された)の妃に選ばれた。徒単氏自身は家族誅滅の憂き目に遭うことをおそれ、ときどきに父に諫言した。大定22年(1182年)11月丙子、熙宗殺害の責を問われ、徒単貞夫婦は2人の男子と共に処刑されたが、太子妃の位は変わらなかった。

允恭は父帝に先立ち大定25年(1185年)に病死したが、4年後に章宗が即位すると徒単氏は皇太后となり、隆慶宮と称した。老荘を好み、清らかで気持ちは安らかであった。

明昌2年(1191年)正月、崩御した。「孝懿」とされて、顕宗と合葬された。

子女

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伝記資料

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脚注

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  1. ^ 徒単貞の本妻は平陽長公主(海陵王の同母妹)。正史で孝懿皇后の母の姓名に関して記載はない。孝懿皇后は庶出の可能性もある。外史によると、孝懿皇后の母は側室某氏、徽宗の顕徳帝姫の娘であった。