妻木広忠

戦国時代から安土桃山時代の武将。明智光秀の家臣。美濃土岐郡妻木城主12代。土岐頼貞--妻木弘定(彦九郎、妻木郷)-妻木広俊-妻木広美-妻木頼安-広忠

妻木 広忠 (つまき ひろただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将明智光秀家臣美濃国土岐郡妻木城主(第12代目)。旗本妻木氏の系譜では、光秀の叔父とされている。また、光秀の正室煕子の父ともされるが、典拠となる史料は不明であり、俗説の域を出るものではない。

 
妻木 広忠
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正11年(1514年
死没 天正10年6月18日1582年7月7日
別名 藤右衛門、源二郎、宗眞・宗心(法名)
戒名 清閑院殿一友宗心居士
主君 織田信長明智光秀
氏族 妻木氏
父母 不明
兄弟 弟:妻木範熈(広忠と同一人物説有り)
水野信元の姪(貞徳生母)
妻木煕子(妻木範熈の子の説有り)
妻木範賢(妻木範熈の子の説有り)
妻木範武(妻木範熈の子の説有り)
妻木範之(妻木範熈の子の説有り)
妻木貞徳
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概要

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尾張国戦国大名織田信長に仕えて、明智光秀の与力となり成果を挙げた。天正10年6月2日1582年6月21日)の本能寺の変の後、同年6月13日(1582年7月2日)に起きた山崎の戦いで明智光秀が敗れ、近江国坂本城が陥落すると、天正10年6月18日(1582年7月7日)に西教寺で関係者一族の墓を作った後に、墓の前で自害したという。

領地 

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妻木村、笠原村、細野村(半分のみ)、駄知村(半分のみ) ※詳細位置不明:窪田、谷口(妻木郷内か)

妻木氏系譜

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  • 妻木城址の会の調査、『寛政重修諸家譜』より。
  • 頼久は之徳とも、頼通は重吉・重慶とも、頼熊は重直とも。
宗家
妻木弘定
  ┃
 広俊
  ┃
 広美
  ┃
 頼安
 ┏┻━┓
広忠 範熈
 ┃  ┃
貞徳 煕子 ━━━━┳━ 明智光秀
 ┣━━┳━━┓  ┃
頼忠 頼久 頼通 珠子 ━━ 細川忠興
 ┣━━┳━━┓
頼利 頼遠 康広
 ┣━━┓
頼次 幸広
上総妻木家
頼久(之徳)(室・熊本藩士木野左兵衛の親族 註① 註②)
 ┃
永徳頼次頼辰
 ┣━━┓
頼道 頼長
 │ ↙
頼長
 ┣━━┓
釣貞 頼愛
 │ ↙
頼愛頼農頼善 頼幸
 │┏━┛
 頼功頼黄

註①

■(大日本近世史料・細川家史料 8-13)抜粋 元和六年三月廿二日書状 妻吉左(妻木之徳)内々被申候ハ、主女之親類ニ、歳廿計なるもの御座候、吉左衛門肝煎候ハてかなハぬ様子共御座候而、只今も吉左衛門所ニ養て被置候、然故御次而も御座候ハゝ、何とそ申上、知行弐百石被遣、被成御抱候様ニ仕度候由被申候、され共、我等者加様之儀申上たる儀無御座候間、正源院まても談合可仕とまて申候而置申候、如何可有御座候哉事 ■(大日本近世史料・細川家史料 8-25)抜粋 元和六年五月十九日書状   先度申上候妻木吉左衛門尉(之徳)内儀親類木野左兵衛事、可被召置之由、被仰下候間、只今罷下候、吉左衛門尉ハ忝之儀難申盡候間、能々御禮申上候様にと被申候事。 の記載あり。

註②

■木野左兵衛 (1)馬廻組六番 三百石 (於豊前小倉御侍帳)  (2)御馬廻衆 三百石 (肥後御入国宿割帳) (3)十二番牧平左衛門組 三百石 (真源院様御代御侍名附) (4)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳) (4)清田石見組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)  (4)御馬廻衆十二番遠坂越後守組 三百石

下郷妻木家
頼通   真田幸政
 ┣━━┓  ┃
頼熊 重門 幸吉
 ┣━━┓┌─┘
頼保  幸頼頼隆頼直頼栄頼篤頼徳頼欽
上郷妻木家
幸広
 ┃
光広頼豊頼広光広頼興頼幸
 ┣━━┓
頼徳 頼功

熊本藩士妻木家

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上総妻木家(妻木頼久・之徳)から分家か。同藩士木野家(妻木頼久・之徳の室が木野家出身)との縁戚関係ありか。

初代、勘兵衛   (1)六番筑紫左近組 三百石 (真源院様御代御侍名附)(2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)(3)有吉頼母允組 三百石(寛文四年六月・御侍帳)

2代、源左衛門    御使番・続団右衛門組 御目付 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)細川綱利公御書出(天和三年)三百石

3代、勘左衛門・正方  三百石 御番方八番 屋敷・古京町 享保十二年六月~享保十二年九月 奉行 妻木勘左衛門減知覚(享保十七年五月)減知二百石

4代、勘兵衛

5代、勘五(勘左衛門)  百石

6代、吉左衛門 御番方・朽木内匠組 旧知百石

7代、勇之助(源左衛門)元左衛門—百石

8代、要助(勘兵衛)須佐美権之允組・御留守居御番方 百石

9代、源十郎 百石

加賀藩士妻木家

初代、康広(左京) 父・妻木頼忠、500石、大坂の陣で戦死。

二代(養子)、九八郎 父・妻木某(妻木貞徳の子)、弟・政綱、切腹絶家。子に勝教。

和歌山藩士妻木家

初代、政綱(嘉左衛門・外記) 父・妻木某(妻木貞徳の子)、兄・九八郎、500石。

二代(養子)、勝教 父・加賀藩士妻木九八郎。

長州藩士妻木家

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系譜不明、幕末期に活躍。吉田松陰の先祖である吉田矩之妻木半平の子[1]であり、幕末期にはその縁で吉田松陰の教えを受けて活動する。

妻木忠朝
妻木忠順(1825 - 1863) 藩校明倫館における吉田松陰の山鹿流高弟。
妻木忠篤(1846 - 1890)吉田松陰の山鹿流門人で、松下村塾塾生。維新後は岡山県書記官となり、第三高等中学校医学部(現・岡山大学医学部)の設置に尽力。

脚注

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注釈

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出典

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関連項目

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外部リンク

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