女川港
女川港(おながわこう)は、宮城県牡鹿郡女川町にある地方港湾。港湾管理者は宮城県。
女川港 | |
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シーパルピア女川から見た女川港 | |
所在地 | |
国 | 日本 |
所在地 | 宮城県牡鹿郡女川町 |
詳細 | |
開港 |
1954年4月1日(設立) 1954年5月21日(港湾区域告示) |
管理者 | 宮城県 |
種類 | 地方港湾 |
統計 | |
統計年度 | 2015年度 |
発着数 | 5,539隻(260,621総トン)[1] |
旅客数 | 21,999人[2] |
公式サイト | 宮城県 |
概要
編集牡鹿半島基部の女川湾の湾奥に位置する港湾で、古くから沿岸漁業の基地として栄えたほか、金華山・江島・出島などの周辺離島への交通拠点となってきた。
明治時代初期、政府は初の近代港湾として野蒜築港の建設に着手したが、1884年(明治17年)の台風により突堤が破壊され建設は断念された。その際、野蒜港に代わる港湾として女川港の築港が検討されたが、財政上の理由から中止となった。
1925年(大正14年)、女川振興会が発足、昭和初期にかけて岸壁や魚市場の整備が進められ、漁業基地としての基盤が作られた。その後、1939年(昭和14年)に発足した女川港修築期成同盟会により商港建設が推進され1941年(昭和16年)に着工。太平洋戦争後も港の重要性は変わらず、1947年(昭和22年)には昭和天皇の戦後巡幸の訪問先の一つとなった[3]。1954年(昭和29年)には地方港湾に指定され、1967年(昭和42年)までに防波堤、岸壁等の主要な港湾施設が建設された。 この間、1946年(昭和21年)3月23日には港内で定期船が沈没、死者117人を出す事故もあった[4]
2015年度の発着数は5,539隻(260,621総トン)[1]、利用客数は21,999人(乗込人員11,164人、上陸人員10,835人)である[2]。
港湾施設
編集石浜地区・高白地区・横浦地区・大石原地区の4地区で構成されており、石浜地区は水産加工品や化学工業品などの貨物取扱、高白・横浦・大石原の各地区は小型漁船を主とした施設整備が行われている。石浜地区については、女川町が工業用地の造成、県が岸壁・物揚場等の港湾施設と分担して整備を行い、1999年に竣工している。
石浜地区
編集- 石浜埠頭3,000トン岸壁(-7,5m×L=150m)
- 石浜-4.5m岸壁(-4.5m×L=70m)
- 石浜物揚場(-3.5m×L=139m)
- 石浜物揚場(-3.5m×L=60m)
- 石浜-7.5m岸壁(L=130m)
- 石浜ふ頭(-4.5m×L=61m)
- 石浜物揚場(-2.0m×L=62m)
- 石浜-1.0m物揚場(L=25m)
- 石浜-4.0m物揚場(L=100m)
- 石浜(1)-2.0m物揚場(L=90m)
- 石浜船揚場(L=28m)
横浦地区
編集- 横浦物揚場延長 64m水深 2.0m
- 横浦物揚場延長 200m水深 1.5m
- 横浦船揚場延長 41m
大石原地区
編集- 大石原物揚場(-1.5m×L=31m)
- 大石原物揚場(-1.5m×L=61m)
- 大石原物揚場(-2.0m×L=60m)
- 大石原物揚場(-1.5m×L=41m)
高白地区
編集- 高白物揚場(-1.5m×L=79m)
- 高白-1.5m物揚場(L=60m)
- 高白-1.5m物揚場(L=50m)
- 高白船揚場(L=30m)
- 高白船揚場(L=31m)
脚注
編集- ^ a b 港湾統計(平成27年度)第3部第1表
- ^ a b 港湾統計(平成27年度)第3部第2表
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、394頁。ISBN 978-4-487-74410-7。
- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、350,352頁。ISBN 4-00-022512-X。
参考文献
編集- 『港湾統計(年報)』国土交通省、2016年 。2017年4月16日閲覧。