奈良ホテル
奈良ホテル(ならホテル)は、奈良県奈良市高畑町にある、1909年(明治42年)10月に営業開始したホテルである。本館は辰野金吾、片岡安の設計による。
奈良ホテル Nara Hotel | |
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ホテル概要 | |
ホテルチェーン | JR西日本ホテルズ |
運営 | 株式会社奈良ホテル |
所有者 | 西日本旅客鉄道 |
部屋数 | 127室 |
開業 | 1909年10月17日 |
最寄駅 |
近鉄奈良駅 JR奈良駅 三条通りを東へ |
最寄IC | 天理インターチェンジ |
所在地 |
〒630-8301 奈良県奈良市高畑町1096 |
位置 | 北緯34度40分48.1秒 東経135度50分1.8秒 / 北緯34.680028度 東経135.833833度 |
公式サイト | 公式サイト |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
日本 〒630-8301 奈良市高畑町1096番地 |
法人番号 | 1150001001766 |
代表者 | 代表取締役社長 森本 昌弘 |
資本金 | 1億円 |
純利益 |
2,229万2,000円 (2024年3月期)[1] |
総資産 |
31億5,437万1,000円 (2024年3月期)[1] |
決算期 | 3月末日 |
主要株主 | 西日本旅客鉄道 100% |
概要
編集春日大社一の鳥居前から天理方面へ向かう国道169号(天理街道)沿いにある、荒池と呼ばれる農業用灌漑池の畔、かつては興福寺の塔頭である大乗院が所在した跡地の小高い丘に建っており、天理街道から本館玄関に至るアプローチ道路南方に旧大乗院庭園が所在する。興福寺、春日大社、奈良公園などの観光地にも近い。
第二次世界大戦前には国営(鉄道院→鉄道省直営)の時代が長く、近畿において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる施設としての役割をになっていた。このため「関西の迎賓館」とも呼ばれる[2][3]。今日でも著名人が多く宿泊し、皇族の奈良宿泊の際にはこのホテルが利用されることが専らである。
現在本ホテルは株式会社奈良ホテルが経営しており、資本金は4億円。後述する歴史的経緯から、うち西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)が50%、近鉄グループホールディングス株式会社(近鉄GHD)が50%出資していた。インバウンドへの強化を目的に、2018年8月31日付けでJR西日本が近鉄GHDから全株式を取得して完全子会社化した[4][5]。ただし、JR西日本ホテルズと都ホテルズ&リゾーツの両方に加盟を続けるなど[5]、近鉄グループとの協力関係は続けるとしていたが[4]、2018年11月10日に翌2019年3月31日を以て都ホテル&リゾーツから退会する旨が発表された[6][注 1]。
設備
編集宿泊設備としては木造2階建て瓦葺き建築で創業以来の本館と、1984年(昭和59年)に営業を開始した鉄筋コンクリート造4階建ての新館よりなり、小高い丘の上に建つ本館1階とその丘の南側斜面を削って建設された新館の屋上が同一平面となる[注 2]。
2010年(平成22年)現在の客室数は本館・新館合わせて127で、ツイン・ダブルの洋室を基本とするが、少数ながら和室も用意されている。木造の本館は全室禁煙である。フロントと、メインダイニングルーム「三笠」、ティーラウンジ、バー、そして売店は本館1階に、日本料理「花菊」は新館5階にあり、宴会場は本館フロント周辺に2室、新館に5室用意されている。また、これらに料理を供する厨房は本館と新館とを連結する区画の地下、つまり新館4階と同一平面に設けられている[注 3]。
歴史
編集開業まで
編集日露戦争後、日本を来訪する外国人観光客が急増した。これに対して日本政府は外国人宿泊施設整備を支援する政策をとり、これを契機として古都である奈良でも都ホテルの創始者である西村仁兵衛(ホテル運営)、奈良市(用地提供)、そして当時奈良を勢力圏としていた関西鉄道(ホテル建設)の思惑が一致して本格的な洋風ホテルの建設計画が立てられた。
ところがその直後に関西鉄道は国有化され、さらに奈良市の意欲も薄れたため、以後の本ホテルは西村仁兵衛、奈良市に代わって奈良県、それに関西鉄道を買収した鉄道院[注 4]の3者の手によって建設計画が推進された[8]。
当初、東大寺南大門前参道東側の用地が奈良県によって提示されたが、運営に当たる西村はこれを拒否[注 5][8]し、彼は1906年(明治39年)7月に高畑町飛鳥山の現在地を独自に選出して坪1円で購入、併せて「奈良ホテル」の商号を登録した[注 6][9]。
本館の建築にあたっては鉄道院によって鹿鳴館の建設費のおよそ2倍に当たる35万円という巨費が投じられ、東京駅駅舎を手がけた辰野金吾と片岡安のコンビが設計を、近畿の建築界において指導的立場にあった河合浩蔵が工事監理をそれぞれ担当するという、建築当時の日本を代表する建築家たちによる万全の体制が敷かれた[8]。
本館は寺社の多い奈良の景観に配慮し、屋根上に鴟尾を置き壁面を白い漆喰仕上げとした木造2階建て瓦葺き建築で、内装は桃山風の豪奢・華麗な意匠とドイツ風の重厚な意匠が混在する、和洋折衷様式となっている。和風の外観になったのは本館の設計当時、奈良では宮内省匠寮技師の片山東熊によって設計され、奈良公園内に建設された奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館本館:1894年完成)の純洋風建築が「奈良公園の景観にそぐわない」として当時の奈良県民に大不評だったためという[10]。こうした市民の声に応えて宇治平等院鳳凰堂をモチーフとして取り入れた奈良県物産陳列所(現・奈良国立博物館仏教美術資料研究センター)[注 7]をはじめ風景と調和しつつ新時代に対応する和洋折衷構造建築の模索が続けられていた。
以上のような紆余曲折を経て1909年10月に現在地に本館が竣工、西村が経営する大日本ホテル株式会社によって営業が開始された。
開業後
編集1909年(明治42年)10月17日の営業開始以来、大日本ホテル株式会社によって運営が続けられた本ホテルであるが、経営難から1913年(大正2年)5月に同社は撤退、以後は鉄道院→鉄道省→運輸通信省→運輸省の直営で宿泊客について「高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役」という原則[注 8]に従って、迎賓館に準じた施設として国の手厚い保護の下で運営されるようになった[11]。
またその経緯ゆえに、鉄道省によって外国からの観光客誘致のためのポスターなどで使用することを目的として制作が依頼された、上村松園、前田青邨、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳ら当時を代表する日本画家による絵画や、やはり鉄道省の依頼で制作された鳥瞰図の名手吉田初三郎による「奈良ホテル鳥瞰図」の原画などが本ホテルに所蔵・展示されている。
1914年(大正3年)には翌年に京都で挙行される大正天皇即位式典に備え、従来の暖炉による暖房に代えてラジエター式のスチームヒーターによるセントラルヒーティングが1年をかけて全館に導入された。これに伴い、本館屋根上に突き出していた煙突が順次撤去された[11]。もっとも、煙突は撤去されたもののロビーをはじめ各所に設けられていた暖炉のマントルピースは室内装飾として残され、これらは現在に至るまで存続している[注 9]。
1935年(昭和10年)4月に国賓として訪日した満州国皇帝溥儀の宿泊に際しては、高価な調度品や美術品が買い揃えられた。皇族・国賓などの食事の際に供される食器がこの時に新調され、特にディナーセットなどの磁器については当時の最高級品が大倉陶園に特注された[注 10]。
1944年(昭和19年)の金属供出の際には、階段の柱頭に装飾として取り付けられていた真鍮製の擬宝珠まで供出された。そこでその代わりに地元名産の赤膚焼で大家であった7代目大塩正人に依頼して製作された陶製の擬宝珠が取り付けられた。この擬宝珠は代用品ながらその個性的かつ趣のある姿ゆえにむしろ好評を博し、以後本ホテルの名物の一つとして定着した。
戦後
編集1945年(昭和20年)の終戦後、同年12月1日に運輸省は本ホテルを日本交通公社に貸し付け、営業も委ねることとしたが、これと前後して同年9月28日、本ホテルはサンフランシスコ講和条約発効後の1952年(昭和27年)6月30日の解除まで連合軍に接収されることとなった。
この際、白木仕上げの内外装が不潔であるとして米兵によって危うく全館ペンキ塗り潰しにされるところであったが、当時の日本側支配人が必死で本ホテルの来歴を米軍担当指揮官[注 11]に説明して説得し、欄干など直接手が触れる部分を朱塗りとし、従業員スペースの内装をペンキ塗り潰しとすることで由緒ある本館主要部を守った、というエピソードが残された[注 12]。
連合軍による接収解除後、経営難に苦慮した日本交通公社は1954年(昭和29年)4月、運輸省から権利を承継した日本国有鉄道へ本ホテル営業の返還を申し出た。だが、日本国有鉄道法の規定で本来の業務から外れる事業への参入・兼業を事実上禁止されていた当時の国鉄ではホテル直営は不可能であった。そこへ国鉄の特急・急行列車で列車食堂の営業を行い、また歴史的にも本ホテル創設に強く関わっていた都ホテルが営業を引き受ける旨申し出を行い、1956年(昭和31年)3月以降は同社によって運営されるようになった。
その後、1960年代末までは複数の部屋で共用する形態となっていた風呂・洗面所を個別化[注 13]するなどの内装の間取りの変更や、冷房装置の設備などの改修はあったものの概ね創建当時の姿を保っていた。だが、この状況は大阪・千里丘陵で1970年に日本万国博覧会が開催されることが公表されたために一変することとなる。
万博開催に伴う改修・拡張
編集海外からの観光客が多数来訪することが予想された日本万国博覧会の開催に備え、本ホテルは1968年(昭和43年)に以下のような大規模な増改築を計画した。
- 客室98、宴会場2、食堂等3、と大きな収容力を備えた新館を本館食堂南側の斜面に建設。
- 個別の風呂・洗面所の設置で不要となった本館の共同風呂・洗面所を改装して客室を22室増設。
- 近鉄奈良駅の地下化に伴い建設される駅ビル6 - 8階に別館を開設。
この時計画された新館の設計は村野藤吾率いる村野・森建築事務所[12]、施工は奥村組の担当であった[13]。
ところが、肝心の新館は工期の問題から見切り発車で起工したものの、古都保存法の区域内であることから奈良県古都風致審議会に建設を差し止められ建設中止となった[13]。そのため、本館の拡充については館内の間取り変更による客室増設が予定通り実施される一方で、すでに着工していた新館の基礎部を生かして近代的な外観の半地下式グリル[注 14]が景観に大きな影響の無い規模で新設され、これに伴い不要となったラウンジ[注 15]が撤去されるに留まった。
近鉄奈良駅ビルに開設された別館[注 16]は、1970年に予定通り営業開始した。
新館建設
編集1970年代末には国鉄の兼業に関する規制が緩和されたことから、安い賃料で他社に営業を委託し続ける状態に甘んじる必要が無くなった国鉄当局は、1981年に都ホテルに対し本ホテルを直営としたい旨を、さらに1982年には土地建物の賃貸借契約を解除したい旨を通告した。都ホテル側はこれに対して使用承認の継続を求め、協議の結果、国鉄と都ホテルが株式を折半保有する新会社、1983年(昭和58年)1月31日に株式会社奈良ホテルが設立され[14]、本ホテルは同年4月1日からは同社によって運営されるようになった。併せて万博以後の状況の変化に対応すべく万博時には断念された新館の建設が再び計画された。この際、1984年(昭和59年)のわかくさ国体を控えて県下の宿泊施設増強を迫られていた奈良県はこの計画に協力的に対応し[注 17]、最大の難関であった風致審議会においても条件付きながら新館の建設が承認された。1983年8月に総工費24億円を投じた新館の工事が開始され、1984年8月に竣工、開業した[15]。
この新館は本館の建つ高台の南側傾斜面を削り込んで埋め込む形で建設された半地下式の鉄筋コンクリート造り4階建てで、客室数65、4つの宴会場と新グリル「ツェダー」[注 18]を備え、本館を含めた供食設備の大幅強化[注 19]を伴う大工事となった。
新館の設計・工事監理は日本国有鉄道大阪工事局建築二課、同東京建築工事局建築二課、それに安井設計事務所が共同で担当し、工事は奥村組が担当した[9]。
新館は1階から3階までの客室についてすべて南側を窓とした開放的なレイアウトとしてあり、制約が厳しい中で各階の天井高さ3mを確保し、かつ景観に配慮した吉野造り[注 20]とするなど、外観・接客設備面ともに既存の本館との調和を図りつつ独自性を発揮した設計となっている。
新館完成後
編集1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化の際、本ホテルにかかる資産はJR西日本が承継し、株式会社奈良ホテルも同社と都ホテルの共同出資となった[注 21]。
「なら・シルクロード博覧会」閉幕後までは本館・新館と、別館(近鉄奈良駅ビル内)の3館体制で営業が続けられたが、別館は採算性の問題から、1991年(平成3年)6月に撤退・閉鎖された。それに先立つ1989年(平成元年)4月には新設されたばかりの奈良県新公会堂[注 22]1階でレストラン「能」の営業を開始している。
本館では、新館完成後も日本万国博覧会開催以前より使用されてきた古風な調度品が修理を重ねつつ長く使用され続けていたが、2006年(平成18年)に寝具や家具、空調設備[注 23]の全面更新が実施されて面目を一新した。翌2007年(平成19年)には新館の設備更新も完了して本館・新館の基本的な接客設備の仕様統一がなされ、最後に料理場の改装工事が2008年(平成20年)9月に完了、3年に渡った一連の館内設備更新工事が完成した。
開設100周年を迎える2009年(平成21年)には各種記念イベントが館内で行われ、2月にはホテル所蔵の絵画20点を展示する絵画展が開かれた。その一方でこの年の11月には1989年より20年にわたったレストラン「能」の営業を終了、奈良県新公会堂から撤退した。
2015年には新館屋上にテラスガーデンを新設、同時に同一平面にある宴会場を南側屋上に張り出すように拡張する工事を設計監理はアーキテクツ・オフィス、構造・設備はJR西日本グループである大鉄工業の担当で実施、同年11月に落成した。この工事に際しては外観上増築されたことに気づかれないほどの従来の宴会場部とのデザインの連続性や一体感、違和感のなさを重視して内外装が設計された。この拡張により得られたスペースを利用して宴会場「金剛の間」が大改装され、また同年12月には日本料理レストラン「花菊」の新館5階宴会場フロア南側拡張部分への移転が実施された。さらに「花菊」の5階への移転で空いた新館4階のスペースは翌2016年に隣接する宴会場「大和の間」の拡張に役立てられ、ホテル全体の宴会場施設の拡充や供食施設の改良が実現している。
2017年4月中旬から一部客室のリニューアル工事を、5月中旬から木造本館の耐震補強工事を実施する。期間は約3年間を予定している[16]。できるだけ原型を損なわないよう、松野浩一東洋大学教授(建築構造学)考案の新しい耐震補強法「複層斜交重ね板壁」(「さねはぎ」で継いだ小幅板を斜めに重ねた3層の補強壁で揺れに抵抗する)が採用された[10]。
宿泊した著名人
編集宿泊した海外の著名人
編集- セルゲイ・プロコフィエフ 1918年(大正7年)5月19日 - 27日 ロシアの作曲家[17]
- バートランド・ラッセル 1921年(大正10年)7月19日 イギリスの数学者[17]
- アルベルト・アインシュタイン 1922年(大正11年)12月17・18日 物理学者[17]
- エドワード8世 1922年(大正11年) 英国王(当時は皇太子)[18]
- グロスター公ヘンリー 1929年(昭和4年) 英国王子[19]
- チャールズ・リンドバーグ 1931年(昭和6年) アメリカの飛行家
- 愛新覚羅溥儀 1935年(昭和10年) 満州国皇帝[20]
- ヘレン・ケラー 1937年(昭和12年)・1948年(昭和23年) アメリカの社会福祉事業家[17]
- ホセ・ラウレル 1945年(昭和20年) 元フィリピン大統領 亡命の為に2ヶ月間滞在[21]
- リチャード・ニクソン 1950年 後のアメリカ合衆国大統領[22]
- ジョー・ディマジオ アメリカのプロ野球選手[23]
- マーロン・ブランド 1956年(昭和31年) アメリカの俳優 MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影の際に宿泊[24]
- グレン・フォード 1956年(昭和31年) アメリカの俳優 MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影の際に宿泊[24]
- ハイレ・セラシエ1世 1956年(昭和31年) エチオピア帝国皇帝。戦後初の国賓[25]
- ジャワハルラール・ネルー 1957年(昭和32年) インド共和国初代首相[25]
- インディラ・ガンディー 1957年(昭和32年) 後のインド共和国首相。父・ネルー首相に随伴して宿泊[25]
- オリヴィエ・メシアン 1962年(昭和37年) フランスの作曲家
- イヴォンヌ・ロリオ 1962年(昭和37年) フランスのピアニスト
- カールハインツ・シュトックハウゼン 1966年(昭和41年)3月 ドイツの作曲家
- マーガレット王女 1970年(昭和45年) 英国王女[26]
- 鄧小平 1978年(昭和53年)[26]
- オードリー・ヘプバーン 1983年(昭和58年)3月31日 - 4月2日 女優[27]
- ダライ・ラマ14世 2003年(平成15年)11月 チベットの仏教指導者[27]
宿泊した日本の著名人
編集- 皇室関係者多数
- 乃木希典 1911年(明治44年)10月 軍人 関西で実施された陸軍師団対抗演習での統裁官の任に当たる際に宿泊
- 高浜虚子 1916年(大正5年)11月 国民新聞記者 連載記事『奈良ホテル』取材のため宿泊
- 東条英機 軍人[20]
- 宇垣一成 軍人[20]
- 荒木貞夫 軍人[20]
- 堀辰雄 1941年(昭和16年)10月 小説家 約20日間滞在
- 佐藤栄作 日本国首相。鉄道官僚として大阪鉄道局長を務めていた時代に所轄の本ホテルを度々訪れ、政治家に転身後も最晩年まで何度も宿泊した[21]
- 三船敏郎 俳優 1956年(昭和31年)4月 MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影の際に宿泊。[24]
- 京マチ子 俳優 1956年(昭和31年)4月 MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影の際に宿泊。[24]
- 清川虹子 俳優 1956年(昭和31年)4月 MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影の際に宿泊。[24]
- 司馬遼太郎 小説家
周辺情報
編集参考文献
編集- 『百年のホテル 奈良ホテル物語100周年記念特別号』 奈良ホテル、2009年
- 『大阪電気軌道営業報告書 自第四十六回〜至第六十回(昭和8年4月〜昭和15年9月)』 鉄道史資料保存会、1989年
脚注
編集注釈
編集- ^ 近鉄グループは自社の主力観光地である奈良県から系列ホテルがなくなったため(「奈良 万葉若草の宿 三笠」などの旅館はある)、近鉄独自でのホテル再進出を検討するとしている[7]。なお、後述の通り、奈良ホテル別館がかつて近鉄奈良駅ビル内に存在した。
- ^ そのため両館の間には本館を模した外観の区画を設け、新館4階と本館1階はエスカレーターとエレベーター、それに階段で連絡する構造となっている。
- ^ 厨房は本館建設時から丘の斜面を削って地下1階相当の位置に設けられており、新館建設時にこれを拡張した
- ^ 本ホテルの用地は関西鉄道時代に既に西村率いる大日本ホテル株式会社の所有するところとなっていたが、国有化直前の1906年9月27日に同社から関西鉄道が購入したため、以後の建設事業は用地を保有する鉄道院が主体となって実施されることとなった。
- ^ 眺望と権利関係の複雑さが原因とされる。
- ^ このことは鉄道院直営となった1913年(大正2年)から1983年(昭和58年)の株式会社奈良ホテル設立に伴う商号登記の際まで完全に忘却されたままとなっていた。そのため、商号使用の承諾を得るべく同社スタッフは西村の子孫を探して全国を行脚する羽目に陥ったという。
- ^ 。関野貞の設計により1902年完成。重要文化財。
- ^ 現行の旅館業法ではこのような職種等による宿泊客の選別・宿泊拒否は第五条で原則禁止されている。
- ^ 本ホテル本館では木造の建物の内部で火を扱う暖炉を使用することから、壁面に断熱材兼吸音材として難燃性の石炭ガラが詰められていた。そのため、煙突撤去や間取り変更などに苦労を強いられることとなった。なお、1984年竣工の新館においても本館との設備の調和に配慮し、客室に楢材を組んだマントルピースが設置されている。
- ^ その代価は約3,000円で、当時本ホテルの備品調達を担当していた鉄道省大阪鉄道局資材課の課長はそのあまりの高額さに驚愕したという。たとえば同時期の大阪電気軌道クラスの大手私鉄の年間利益が330万円程度、つまり1日あたりの利益が10,000円に満たない時代のことであり、その金額は当時の一般的な住宅が何軒も買えるものだったのである。これらの食器は以後、現在に至るまで皇族・国賓クラスの来館者の食事の際に供され続けている。
- ^ キャプテンと呼ばれた。
- ^ このことは、本ホテルを描いたカラー絵はがきでも確認できる。戦前発行の絵はがきでは外部の手すりが白木であるが、戦後のものは朱に着色されている。
- ^ このような事情から、本館客室の風呂・洗面所の配置は一部で変則的なものとなっている。
- ^ 2階建てであったが、本館側からは1階建てに見える位置関係にあった。
- ^ 本館入り口東南の現在駐車場として使用されているエリアにあった。この部分は撤去後も分解状態で部材が保管され、1985年に大和文華館に移築されて同館の文華ホールとして現存する。
- ^ 真正面に若草山が見える絶好のロケーションであったため、若草山の山焼きの前後は東側の客室が常に満室となることで知られていた。
- ^ この時期の県下宿泊施設拡充は、続く1988年の「ならシルクロード博覧会」開催においても威力を発揮した。
- ^ 1999年に日本料理「花菊」に改装、以後、グリルはメインダイニングルームが肩代わりするように変更された。
- ^ この新館建設に伴う客室数大幅増加に対し、食堂はメインダイニングルーム北東に隣接する既存の宴会場1室を開放しメインダイニングルームと連結しL字状のフロア構成に拡大することで対応した。だが、供食設備の強化はそれでは済まず、本館と新館を連結する宴会場・ロビー区画からメインダイニングルームにかけての地下にまたがって広大な厨房・ベーカリー・冷蔵庫群が整備された。
- ^ ただし、本館との結合部分となる旧グリル跡の宴会場区画については本館に準じて瓦屋根に鴟尾を載せた白壁の和洋折衷様式とされ、本館とのデザインの連続性について配慮されている。
- ^ 都ホテル出資分は後に近鉄グループの改組で近鉄ホテルシステムズ、さらに近鉄グループホールディングスに引き継がれた。
- ^ 現在の奈良春日野国際フォーラム 甍~I・RA・KA~。奈良ホテル創設期に奈良県がホテル用地候補としていた東大寺南大門前参道東側の更に東側にあった四恩院跡の旧公会堂・奈良倶楽部跡地に建設された。
- ^ 窓部に設置されていたクーラーのエアコンへの置き換え。これによりリモコン操作による室温設定が可能となった。なお、1914年設置のスチームヒーターは以後もそのまま設置され続け、冬季を中心に使用されている。
出典
編集- ^ a b 株式会社奈良ホテル 第42期決算公告
- ^ “「関西の迎賓館」 奈良ホテル”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 2. (1997年1月23日)
- ^ "奈良ホテルヒストリー". 奈良ホテル. 2020年11月1日閲覧。
- ^ a b “株式会社奈良ホテルの株式取得に関するお知らせ”. 西日本旅客鉄道株式会社 (2018年8月31日). 2018年8月31日閲覧。
- ^ a b “「関西の迎賓館」奈良ホテル、JR西の完全傘下に”. 産経WEST (産経新聞社). (2018年8月31日) 2018年8月31日閲覧。
- ^ 都ホテルズ&リゾーツからの退会に関するお知らせ - 奈良ホテル 2018年11月10日(2018年11月12日閲覧)
- ^ “JR西、奈良ホテルを完全子会社に 訪日客獲得へ”. 日経電子版 (日本経済新聞社). (2018年8月31日) 2018年9月1日閲覧。
- ^ a b c 「百年のホテル」p.39。
- ^ a b 「百年のホテル」p.58。
- ^ a b 辰野金吾設計の「奈良ホテル」、木材で耐震補強 建物の趣き損なわずジョルダンニュース、2018/3/28
- ^ a b 「百年のホテル」p.42。
- ^ MURANO design 村野藤吾について 作品年譜
- ^ a b 「百年のホテル」p.54。
- ^ 「近畿日本鉄道100年のあゆみ」 p.406 近畿日本鉄道 2010年発行
- ^ 「百年のホテル」pp.56-59。
- ^ “木造本館の耐震補強工事と客室等リニューアルのご案内”. 奈良ホテル公式サイト. 2017年5月4日閲覧。
- ^ a b c d 「百年のホテル」p.43。
- ^ 「百年のホテル」pp.43-44。
- ^ 「百年のホテル」pp.44-45。
- ^ a b c d 「百年のホテル」p.45。
- ^ a b 「百年のホテル」p.46。
- ^ 「百年のホテル」p.50。
- ^ 「百年のホテル」p.51。
- ^ a b c d e 「百年のホテル」p.52。
- ^ a b c 「百年のホテル」p.53。
- ^ a b 「百年のホテル」p.55。
- ^ a b 「百年のホテル」p.59。
関連項目
編集外部リンク
編集- 奈良ホテルホームページ(JR西日本ホテルズのサイト)
- 奈良ホテル(都ホテルズ&リゾーツのサイト)
上記2つどちらのリンクを選択してもhttp://narahotel.co.jpの全く同じサイトに自動的に移動する
- 大鉄工業(新館宴会場拡張工事の構造・設備を担当した大鉄工業の紹介ページ)
- ARCHITECTS OFFICE(新館宴会場拡張工事の設計監理を担当したアーキテクツ・オフィスの紹介ページ)