太田重正
戦国時代から江戸時代前期の武将。子に太田正重(水戸徳川家家臣)、橋本資宣、遠山資為(旗本9百石)、荒尾久成の妻
太田 重正(おおた しげまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
時代 | 戦国時代、江戸時代 |
---|---|
生誕 | 永禄4年(1561年) |
死没 | 慶長15年8月2日(1610年9月18日) |
戒名 | 覚林院 |
墓所 | 静岡県三島市の妙法華寺 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 太田氏 |
父母 |
父:太田康資 高祖父:太田道灌 |
兄弟 | 妹:英勝院 |
妻 | 都築秀綱娘(太田資宗母) |
子 | 正重[1]、井上政重室、資宗、橋本資宣、遠山資為[2]、荒尾久成室 |
一族
編集経歴
編集重正の父とされる太田康資は、はじめ後北条氏に仕えたが、恩賞の不満から離反(諸説ある)し、第二次国府台合戦で大敗すると安房国の里見氏の下に逃亡。のちに里見氏の内紛に巻き込まれて自害したとされている。
重正は父の死後、佐竹義重のもとへ赴き、同地に亡命していた同族の太田資正(岩槻太田氏)を頼って落ち延びたという。「重正」の名も義重と資正から1字ずつ与えられたものという推測もされている。のちに京都に移住したともいわれる。
1590年(天正18年)の北条氏滅亡後、関東に移封されてきた徳川氏の家臣となった。翌1591年(天正19年)、武蔵国豊島郡蓮沼において500石を与えられた[3]。死後に子の資宗が加増を重ね、大名(下野山川藩)に列した。資宗は英勝院の養子となっていたので、その引き立てがあったとも考えられる。
重正の出自の疑義
編集重正の父親とされる太田康資は、江戸城築城で知られる太田道灌の曾孫である。しかし、重正が康資の実子であるかどうかは確証がない、とする説がある。康資の確実な実子の太田駒千代は後北条氏の人質となっていたが、康資が後北条氏から離反した際に自害させられ、墓所とされるものが現存する。また、妹の英勝院は一般的には康資の娘とされているが、この出自もまた確証が無い。太田氏の家系図に対して、資宗の代の頃に何らかの改竄が行われたとする説がある。