太田資直

江戸時代前期から中期にかけての大名

太田 資直(おおた すけなお)は、江戸時代前期から中期にかけての大名駿河国田中藩初代藩主。掛川藩太田家3代。

 
太田資直
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 万治元年(1658年
死没 宝永2年1月2日1705年1月26日
別名 通称:左近
戒名 高徳院殿道祐日運大居士
墓所 静岡県藤枝市藤枝の大慶寺
静岡県三島市妙法華寺
官位 従五位下備後守備中守摂津守
幕府 江戸幕府奏者番若年寄
主君 徳川綱吉
摂津下総国内→駿河田中藩
氏族 太田氏
父母 父:太田資次、母:能勢頼次養女[1]
兄弟 長男、資直資明資方内藤弌信正室ら
板倉重常
長男、次男、三男、四男、資晴松平乗賢正室
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生涯

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万治元年(1658年)、大坂城代寺社奉行を務めた浜松藩太田資次の次男として誕生した。寛永12年(1672年)12月28日に従五位下・備後守に叙位・任官された。天和3年(1683年)8月11日に備中守に遷任された。貞享元年(1684年)4月に父が死去したため、家督を継いで摂津・河内国下総国などの所領およそ5万2000石を相続した。このとき、弟の資方に常陸国2000石を分与したため、5万石となる。7月19日に駿河田中に移封された。

貞享2年(1685年)6月10日に奏者番に任じられ、さらに8月9日に若年寄に任じられた。9月4日に摂津守に遷任された。貞享3年(1686年)1月11日、5代将軍徳川綱吉近習に任じられたが、6月29日に病を理由に辞任した。しかしこれが綱吉の怒りを買い、元禄元年(1688年)12月18日まで出仕を停止された。

宝永2年(1705年)1月2日、田中で死去、享年48。長男から四男は全て早世していたため、末子で五男の資晴が跡を継いだ。

系譜

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父母

正室

子女

脚注

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  1. ^ 松平昌重の娘
先代
太田資次
摂津・河内・下総国内
1684年
次代
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