太田美實

日本の内科医師

太田 美實(おおた よしみ、1924年11月1日[1][2] - 2015年1月16日[3])は、日本内科小児科泌尿器科医師[2]馬主

おおた よしみ

太田 美實
生誕 1924年11月1日
日本の旗 日本 京都府
死没 (2015-01-16) 2015年1月16日(90歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都大学医学専門学校(現・京都大学医学部
職業
肩書き
  • 太田医院 元院長
  • 東山医師会 元会長
配偶者 太田 珠々子
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京都府京都市東山区に所在する[1]太田医院元院長。京都馬主協会に所属していた馬主でもあり、1993年ダービー馬のウイニングチケットなどを所有していた[1]。妻は、元タカラジェンヌの太田珠々子[4][5]

経歴

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1924年京都府出身。京都大学医学部を卒業し、その後太田医院を開院した。1993年時点では東山医師会の会長を務めていた[1]

2015年1月16日心不全のため逝去[3]。90歳没。

馬主活動

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太田の勝負服

日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録した馬主としても知られた。勝負服の柄は所有馬を初めて預託した松田由太郎が決めたという[5]赤、水色一本輪、袖黄縦縞。冠名には妻・珠々子(スズ子)の名前より「ベル」と、美實の「頭髪が上がっている」ことから「トップ」を組み合わせた「ベルトップ」を用いていたが、あまり馬が走らなかったことで使用しなくなった[5]

学生時代より馬好きであったことから馬主となったといい、最初の所有馬は先述の松田のもとに預託され、松田の姓と父ダイハードの名を組み合わせた「マツハード」という馬であった[5]

なお、宝塚歌劇団37期生で、本城珠喜の芸名で活躍した妻の珠々子[4][5]も馬主であり、かつての勝負服の柄は黒、桃星散、袖桃二本輪であったが、美實が死去したのちに所有馬とともに「赤、水色一本輪、袖黄縦縞」の服色を引き継いだ[6]

 
在りし日の美實の写真を手にし口取りに臨む太田珠々子
(2016年シルクロードS、優勝馬ダンスディレクター

エピソード

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  • 妻によれば、競馬場ではいつも馬券を100円単位でしか買わず、「ミスター100円」と呼ばれていたという[5]
  • 勝負服色は「マルブツ」で知られる大澤毅のものとよく似ており、太田自身も「時々間違える(笑)」と語っている[5]
  • かつてはファンとともに北海道の牧場を巡るバスツアーを実施しており、2008年時点で11度開催されていた[5]
  • 1993年ウイニングチケット東京優駿を制した後、優勝杯を抱えつつ電車で帰宅したため、週刊誌に「タクシーではなく、電車に乗って帰ったケチな馬主」と書かれてしまったという[7]

来歴

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主な所有馬

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GI級競走優勝馬

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重賞競走優勝馬

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その他の所有馬

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太田珠々子の所有馬

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脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g 「杉本清の競馬談義 (101) ゲスト・太田美実さん」『優駿』、日本中央競馬会、1993年8月、82-83頁。 
  2. ^ a b 『日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版』近畿地方・京都府30頁
  3. ^ a b ダービー馬Wチケットなど所有、馬主の太田美實氏が死去…”. Sponichi Annex. スポーツニッポン (2015年1月18日). 2024年11月1日閲覧。
  4. ^ a b 太田オーナー15年ぶりG1美酒/Vマイル”. 日刊スポーツ (2008年5月19日). 2008年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月1日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i 週刊競馬ブック 2008年6月8日号 P195-197
  6. ^ 【フェブラリーS】ローマンに天国の先代馬主から後押し”. Sponichi Annex. スポーツニッポン (2015年2月20日). 2024年11月1日閲覧。
  7. ^ 『競馬王のPOG本 2013~2014』18頁

参考文献

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  • 『日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版』(医学公論社、1957年)
  • 優駿』1993年8月号(日本中央競馬会、1993年7月)
    • 杉本清の競馬談義 (101) ゲスト・太田美実さん」
  • 週刊競馬ブック』2008年6月4日号
    • 芦谷有香「芦谷有香のオーナーサロン vol.301 エイジアンウインズの太田 美實氏 インタビュー」
  • 『競馬王のPOG本 2013~2014』(白夜書房、2013年6月)
    • 「太田美實オーナーインタビュー」

外部リンク

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