円泉寺 (世田谷区)
東京都世田谷区にある寺院
(太子堂郷学所から転送)
円泉寺(えんせんじ)は、東京都世田谷区太子堂三丁目にある真言宗豊山派の仏教寺院。圓泉寺とも表記される。聖徳太子を祀る堂(太子堂)があり、付近の地名はこの太子堂にちなんでいる。
所在地 | 東京都世田谷区太子堂3-30-8 |
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位置 | 北緯35度38分58.9秒 東経139度40分13.4秒 / 北緯35.649694度 東経139.670389度座標: 北緯35度38分58.9秒 東経139度40分13.4秒 / 北緯35.649694度 東経139.670389度 |
山号 | 聖王山 |
院号 | 法明院 |
宗旨 | 新義真言宗 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
寺格 | 旧別当寺 |
本尊 | 不動明王 |
創建年 | 南北朝時代 |
中興年 | 文禄4年(1595年) |
中興 | 賢恵 |
正式名 | 聖王山法明院圓泉寺 |
札所等 | 玉川八十八ヶ所霊場第51番札所 |
法人番号 | 6010905000121 |
歴史
編集当寺院は、遅くとも南北朝時代の末期に太子堂と小堂が出来ていたものと推測されている。その後、文禄4年(1595年)になって賢恵によって中興がなされた。『世田谷の地名』(世田谷区教育委員会)などが載せる伝承によると、久米寺(現在の奈良県橿原市)から聖徳太子像と十一面観音像を背負って布教のため関東地方に訪れていた賢恵が当地で一泊した際、夢に現れた聖徳太子が、当時は霊泉が湧き出ていたこの地で祀られることの望んだため、堂宇を建てたという[1]。
その後、江戸時代になると中野・宝仙寺の末寺になる。寛文12年には庚申供養塔が造立される。安政4年(1857年)に出火により本堂・太子堂などが焼失した。安政7年(1860年)に本堂などが再建。現在の本堂は明治32年(1899年)に完成。大正15年(1926年)に大改修が行われる。その後の第二次世界大戦の戦禍からは免れた。戦後は本堂の改修(1964年)、太子堂の改修(1951年、1969年)が行われ現在に至る。
太子堂郷学所
編集明治4年(1871年)、世田谷区内では初となる学校であり、世田谷区内の近代教育のはしりとも言える太子堂郷学所が、付近の村の有志たちにより建立された。郷学所では四民平等の理念に基づき平等に教育を行い、世田谷の教育界において大きな影響を与えた宮野芟平(さんぺい)を教師として招いた[2]。太子堂郷学所は一時期、当寺院内に校舎が置かれた[3]。
境内
編集アクセス
編集脚注
編集- ^ 【東京 地名研究室】太子堂(世田谷区)聖徳太子由来の学びの地『産経新聞』朝刊2018年11月25日(東京面)2018年12月1日閲覧。
- ^ 太子堂郷学所は明治6年(1873年)に新学制によって、第二中学区第四番小学荏原学校(現在の世田谷区立若林小学校)になった。世田谷区内では最初に作られた小学校である。
- ^ それにちなんで境内に宮野芟平の頌徳の碑が建てられる。
参考資料
編集- 円泉寺公式ホームページ