天野興定
戦国時代の武将、大内氏・尼子氏の家臣
天野 興定(あまの おきさだ)は、戦国時代の武将。大内氏、尼子氏の家臣。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明7年(1475年) |
死没 | 天文10年(1541年)[注釈 1] |
別名 | 六郎[1] |
戒名 | 高玄寺月光英心[1] |
墓所 | 安芸国志芳庄高立寺[1] |
官位 | 民部大輔[1](受領名) |
主君 | 大内義興→尼子経久→大内義隆 |
氏族 | 藤姓生城山天野氏 |
父母 | 父:天野興次[1] |
兄弟 | 興定、興与[1] |
妻 | 天野元貞娘 |
子 | 隆綱[1]、元定[1] |
出自
編集安芸天野氏は、藤原南家工藤氏の一族で安芸国に下向し国人化したもので、興定の系統は天野顕義から始まる生城山天野氏にあたる。同じく安芸の国人である天野隆重・天野隆良・天野元明の一族の系統は金明山天野氏である。
略歴
編集文明7年(1475年)、天野興次の子として誕生。父同様、近隣で勢力を誇っていた大内義興の偏諱を受けて興定と名乗る[注釈 2]。
天野氏は安芸に土着する国人領主で、毛利氏や宍戸氏などとは元々同格の立場である。代々周防国の大内氏の影響下にあったが、出雲国の尼子経久の勢力が安芸に浸透してくるようになると、離反し尼子氏へ属したが、勢力を盛り返した大内義興の攻撃を受け、滅亡寸前にまで追い込まれる。しかし、毛利元就の取り成しもあって大永5年(1525年)に降伏が許され、以後は親大内・親毛利の立場を貫いた。
天文9年(1540年)、吉田郡山城の戦いでは、毛利氏救援の援軍を率いて出陣。大軍を率いて安芸に乗り込んだ尼子晴久の撃退に成功する。翌、天文10年(1541年)には、毛利氏と共に尼子方の佐東銀山城の武田信実を攻略するも、同年に病死した。家督は子・隆綱が継いだ。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション