大道寺一経
日本の江戸時代中期~後期の武士。陸奥弘前藩家老大道寺繁糺の子で、大道寺隼人家(大道寺氏分家)7代当主。弘前城代・家老を勤める
大道寺 一経(だいどうじ かずつね)は、江戸時代中期の弘前藩士。
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 享保17年(1732年) |
死没 | 寛政7年6月8日(1795年7月23日) |
別名 | 隼人、族之助(通称)、自得軒、遯翁 |
墓所 | 弘前市の耕春山宗徳寺 |
主君 | 津軽信著→信寧 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 大道寺氏(隼人家) |
父母 | 大道寺繁糺 |
兄弟 | 一経、高倉盛宥室 |
子 | 繁殖 |
生涯
編集享保21年(1736年)、家督1600石を継いだ。明和7年(1770年)には城代となる。当時、弘前藩の財政は非常に困窮しており、一経は家禄の少ない下級武士に自らの家禄を分け与えることを進言し、その結果、半知召し上げとなった。そのため、世間は大いに一経を称賛した。
参考文献
編集- 「青森県人名大事典」[1]1969年、東奥日報社