大橋智干
山口県出身のプロ野球選手
大橋 智干(おおはし ともひさ、1921年6月25日 - 没年不明[1])は、山口県出身のプロ野球選手(捕手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1921年6月25日 |
没年月日 | 没年不明 |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1940年 |
初出場 | 1940年5月24日 |
最終出場 | 1940年7月15日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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経歴
編集下関市立下関商業学校(現・下関商業高等学校)在学中は、甲子園に4度出場(春2回〈1938年,1939年〉、夏2回〈1938年,1939年〉)。そのうち1939年夏の大会では、正捕手としてチームの準優勝に貢献した[2]。当時のチームメイトに、長富政武(のち大洋)、諏訪裕良(のちに高野裕良に改名。巨人→金星・大映→大洋)がいた[2]。
1940年3月15日に巨人に入団[3]。しかし正捕手の吉原正喜や第2捕手の楠安夫の壁は厚く、僅か5試合の出場に留まり、同年末に現役引退した。引退後の消息は不明。
内海五十雄の後を継いで、巨人軍の背番号26を付けた選手である[4]。また出場機会はほとんど無かったが、沢村栄治とヴィクトル・スタルヒンの間に座ってミーティングに参加している写真が現存している[5]。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1940 | 巨人 | 5 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | -- | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 2 | -- | .333 | .333 | .333 | .666 |
通算:1年 | 5 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | -- | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 2 | -- | .333 | .333 | .333 | .666 |
背番号
編集- 26 (1940年)
脚注
編集- ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、111ページ
- ^ a b 1939年夏(熱球の記憶 プロに進んだ甲子園球児達)
- ^ 東京巨人軍登録選手(1940年)野球回廊のHP
- ^ 背番号変遷(20番台)|読売巨人軍公式サイト - 東京読売巨人軍。
- ^ 沢村栄治の集合写真(沢村栄治記念館)※「昭和15年 ミーティングにて 前列左から4人目」という写真である。
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 大橋智干 - NPB.jp 日本野球機構