大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日[1] - 1992年8月9日[1])は、日本実業家三菱鉱業セメント社長、三菱鉱業会長、旧日経連(現経団連)会長を歴任した。宮城県名誉県民

略歴

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宮城県伊具郡に生まれる[1]第一高等学校を経て[1]、1928年東京帝国大学法学部卒業[1]。同年、三菱鉱業株式会社に入社[1]。1950年同社取締役[1]、1955年同社常務取締役[1]、1959年同社副社長[1]、1963年同社代表取締役社長[1]。1973年三菱鉱業セメント株式会社代表取締役社長[1]、1976年同社取締役会長[1]、1986年同社取締役相談役[1]。1992年三菱マテリアル株式会社最高顧問・相談役[1]

社外では、日本セメント協会会長(1975年 - 1990年)、日経連会長(1979年 - 1987年)、金曜会代表世話人(1979年 - )、日本弘道会理事(1984年 - )などを歴任した[1][2]

木川田一隆は同郷で同窓だった[要出典]

叙勲など

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  • 1961年 - 紺綬褒章[1]
  • 1964年 - 藍綬褒章[1]
  • 1973年 - 勲一等瑞宝章[1]
  • 1981年 - 勲一等旭日大綬章[1]
  • 1990年、宮城県名誉県民[2]

主な著書

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  • 『私の三菱昭和史』

関連項目

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 大槻文平先生御略歴」『弘道』第961巻、日本弘道会、1992年12月。 
  2. ^ a b 宮城県. “名誉県民・県民栄誉賞・知事表彰”. 宮城県. 2023年6月26日閲覧。