大村大空襲
大村大空襲(おおむらだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1944年10月25日、インドに本拠地を置く第20爆撃集団隷下のアメリカ陸軍航空軍第58爆撃団の戦略爆撃機B-29がマッターホルン作戦(英語: Operation Matterhorn)として中国の成都近郊に配置した4つの前進基地から飛来して行った日本本土空襲のひとつ。長崎県大村市の第21海軍航空廠[注釈 1]を第一目標とし計78機のB-29が出撃、うち59機が爆撃した。これにより、人的被害[注釈 2]とともに工場の壊滅的被害を受けた[注釈 3]。その後、諫早市などへの工場の分散配置などが行われた。戦後、慰霊塔が建立され慰霊祭(イレイサイ)が行われている[3]。
概要
編集長崎県の大村は、戦前および戦中において、1897年に陸軍歩兵第46連隊が設置され、 1922年に大村海軍航空隊が設置された。その隣接地に1941年に第21海軍航空廠が置かれた。ここで航空機製造、整備等が行われた[4]。
1937年8月15日には、大村海軍基地から中国の南京へ木更津海軍航空隊の九六式陸上攻撃機20機による空爆が行われた。これは「渡洋爆撃」として大きく報道された。
第21海軍航空廠を始めとした軍事施設や軍事関連産業が集まった大村は人口が増加し、1町5か村が合併して1942(昭和17)年に大村市が誕生した[5]。まさに「軍都」であり「空都」として発展した[6]。
太平洋戦争中、大村市はたびたび空襲を受けたが、とくに、1944年(昭和19年)10月25日の第21海軍航空廠を爆撃目標とした空襲を大村大空襲とよぶ。
経過
編集インドに本拠地を置いていたアメリカ陸軍航空軍第58爆撃団の戦略爆撃機B-29が、作戦(野戦命令13号、ミッション番号13)実施の数日前に、中国の成都周辺にあった4つの飛行場に分散して集合した[7]。作戦当日、1944年10月25日未明に離陸、大村空襲に向かった。中国海岸近くで集合し、男女群島に編隊を組みながら向かった。そこから五島列島南にある黄島(おうしま)上空へ向かった。ここを攻撃始点として、西彼杵半島を横断、大村湾上空を通過して大村市へ来襲した。爆弾投下後、左に反転して佐世保付近、済州島付近を経由して成都へ帰って行った[8]。
慰霊
編集毎年、10月25日に、第21海軍航空廠の防空壕遺構が保存されている慰霊塔公園[9]で慰霊祭が行われている[10]。遺族や関係者など100名ほどが出席している[11][12]。
大村大空襲をテーマにした作品
編集- 森川タカシ『まんが大村空襲 大村高女と第21航空廠物語』2017年6月10日。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 上野盛夫 (2003年). “大村大空襲(大村大空襲)、大村海軍航空隊、第21海軍空廠(講演概要)(大村の歴史シリーズ)”. https://www.fukushige.info/. 2024年6月9日閲覧。
- ^ 神立 尚紀 (2022年2月26日). “「59機」の“B-29”を相手に、撃墜できたのはわずか「1機」…航空隊に向けられた“市民の怒り””. https://gendai.media/. 講談社. 2024年6月9日閲覧。
- ^ 大村市観光振興課 (2015年). “戦争と大村 慰霊塔公園(長崎 おおむら よかトコなび)”. https://www.omuranavi.jp/. 2024年6月9日閲覧。
- ^ 山下 和秀(大村市立史料館 学芸員) (2024年). “軍とともに歩んだ大村の近代史”. https://www.city.omura.nagasaki.jp/. ながさき歴史・文化ネット. 長崎県文化振興・世界遺産課. 2024年6月9日閲覧。
- ^ 大村市役所 (2022年). “大村市のあゆみ”. https://www.city.omura.nagasaki.jp/. 2024年6月9日閲覧。
- ^ 大村市観光振興課. “第21海軍航空廠があった街(大村の歴史)”. http://old.omura.itours.travel/. 大村観光ナビ. 2024年6月9日閲覧。
- ^ 第20航空軍第20爆撃軍団作戦任務報告書(29) 1944, p. 07.
- ^ 第20航空軍第20爆撃軍団作戦任務報告書(29) 1944, p. 26.
- ^ Google Maps – 慰霊塔公園(大村市) (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年10月26日閲覧。
- ^ 「令和6年度(第63回)第21海軍航空廠殉職者慰霊祭」大村市役所
- ^ “「第21海軍航空廠」空襲から80年 犠牲者を慰霊 大村”. https://www3.nhk.or.jp/. NHK長崎. 2024年10月26日閲覧。
- ^ “「第21海軍航空廠」殉職者ら悼む 大村大空襲80年 300人以上が犠牲”. https://nordot.app/. 長崎新聞社 (2024年10月26日). 2024年10月26日閲覧。
参考文献
編集- 伊藤高顕『追憶の第二十一海軍航空廠』2012年2月25日。
- 第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会 編『放虎原は語る・大村大空襲と第二十一海軍航空廠』大村市、1999年3月31日。
- 田中勲『続・青春の哀歓』佐賀新聞社、1991年7月10日。
- 野口貞一 著、野口貞一 編『第二十一海軍航空廠沿革誌』野口貞一、大村市、1972年7月1日。
- 「あいなんからの祈り」実行委員会 編『三四三空隊誌』宿毛印刷、2009年。
- 米国国立公文書館; 国立国会図書館デジタルコレクション (1944年). “Mission 13, Omura, 25 October 1944 (文書名:Headquarters 20th Air Force 20th Bomber Command Mission Reports, 1944-1945. = 第20航空軍第20爆撃軍団作戦任務報告書) (ボックス番号: 29; フォルダ番号: 1)” [大村大空襲に関するアメリカによる作戦任務報告書(英語)] (英語). 2024年5月6日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- ニューイングランド航空博物館(New England Air Museum) (1959年). “58th Bomb Wing WWII Memorial – New England Air Museum” [第 58 爆撃航空団第二次世界大戦記念碑 – ニューイングランド航空博物館] (英語). https://neam.org/. 2024年6月9日閲覧。
- 太平洋上で日本に近づいた空母「カボット」と「バンカーヒル」から発進した艦載機による大村航空基地などの空爆。
- 国立国会図書館デジタルコレクション (1945年). “Aircraft Action Report No. VF-86 VT-35 1945/03/18 : Report No. 2-d(21): USS Cabot, USSBS Index Section 7 (文書名:Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 55, Security-Classified Carrier-Based Navy and Marine Corps Aircraft Action Reports, 1944-1945 = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 海軍・海兵隊艦載機戦闘報告書) (課係名等:Intelligence Branch ; Library and Target Data Division) (シリーズ名:Aircraft action reports (carrier-based aircraft))” (英語). 2024年6月9日閲覧。
- アメリカ軍による終戦直後の第21海軍航空廠の調査。爆撃を受けた建物などの写真が掲載されている。
- 国立公文書館デジタルアーカイブ (1945年). “戦災概況図大村”. 2024年6月9日閲覧。