大月源二
大月 源二(おおつき げんじ、1904年2月19日 – 1971年3月18日)は、日本の画家。主にプロレタリア美術の画家として知られる。
東京美術学校を卒業した後、プロレタリア美術運動に参加。プロレタリア文学の代表的作家、小林多喜二は盟友であり、『一九二八年三月十五日』や『蟹工船』等の代表作の装幀を手がけている。後年は故郷北海道の自然を題材にした作品も多い。
生涯
編集生い立ち
編集1904年(明治37年)函館で生まれ、その後小樽へ移住。小樽区立稲穂小学校に入学する。小学校六年間の成績が、すべて「甲」である優秀な生徒だった。1916年(大正5年)庁立小樽中学校に入学すると、中学三年の頃から小樽洋画研究所に通い、本格的なデッサンや油絵等を学んだ。この頃、画家の道を志す。その理由は有島武郎の『生まれ出づる悩み』を読んだことだったと述べている。1921年(大正10年)には川端画学校に入り、石膏素描を勉強する。
プロレタリア美術運動へ
編集1922年(大正11年)、東京美術学校に入学。同期には、猪熊弦一郎、小磯良平、山口長男などがいた。この頃、ニーチェ哲学に影響を受け、ダダイスムに関心を持つ。1927年(昭和2年)に卒業後、島崎翁助などと共に、マルクス主義的な美術集団『赤道社』を結成するが、数ヵ月後に解消。日本プロレタリア文芸連盟美術部に加入し、機関紙に漫画やカットを多数描く。
1928年(昭和3年)三・一五事件で検挙。約一ヶ月に渡り拘留され、特高の激しい拷問を受ける。1930年(昭和5年)にも再度拘留された。1931年(昭和6年)、日本共産党に入党(同じ頃に小林多喜二も入党している)。その後、この年に結成された日本プロレタリア文化連盟に参加、中央協議員となる。
1932年(昭和7年)、治安維持法で検挙され、投獄。1933年(昭和8年)、独房の中で小林多喜二の死の知らせを聞いた。1934年(昭和9年)に懲役三年の刑に処せられ服役、翌年仮釈放となる。1936年(昭和11年)から都新聞に沖一馬のペンネームで「時局漫画」を連載。
1938年(昭和13年)、結婚。(翌年に長男、44年に長女、47年に次男が誕生。)
1943年(昭和18年)、『三河(サンホー)の草丘と子牛達』が文展の特選を受賞。また、『三河の農夫ポノマリヨフ』が一水会展で入選、画壇で注目されるようになる。1944年(昭和19年)、東京から子供を連れて小樽に疎開。1945年(昭和20年)7月には従軍画家として択捉島に渡り、8月に帰還。終戦を迎える。
戦後
編集1946年(昭和21年)、日本美術会が結成され、参加。その後、日本美術会北海道支部の支部書記長、一水会の会員などになる。1947年(昭和22年)には労農美術家団を結成。同年、余市郡大江村字オサルナイ(現仁木町)に移住。リンゴ農園家となるが、その後も画業を継続。1951年(昭和26年)からは毎年、アンデパンダン展の開催に併せて上京する様になる。
1954年(昭和29年)、洞爺丸台風で自宅兼アトリエが倒壊。札幌の手稲に移転する。1959年(昭和34年)には『草炎会』を結成。その後はアンデパンダン展、生活派美術集団展、草炎会展などを中心に作品を発表し、講演などもこなした。1970年(昭和45年)には滝川市で『大月源二油彩小品展』が開かれる。
補足
編集- プロレタリア美術で有名な画家だが、本格的にプロレタリア美術に臨んだのは1927年から治安維持法で投獄されるまでの約五年間ほどである。
- 1939年頃の「時局漫画」では、大東亜共栄圏、東亜新秩序を肯定するとも言えるような作品もある。また、『三河の草丘と子牛』は(描いた本人にそのような意図がないにしても)満州が桃源郷であることを伝える画として宣伝された。これらについて大月は後年、獄中で転向し、第二次世界大戦に協力した自分を自己批判する講演をしている。
- 終生にわたり、リアリズムを追求し、抽象主義芸術の流行に対しては「ものをものらしく描くことがすべて19世紀的で、ものらしくないものを描くことが20世紀的だという」と、怒りに近い感情を表して批判している。
主な作品
編集参考文献
編集- 「画家 大月源二 -あるプロレタリア画家の生涯-」著・金倉義慧、創風社ISBN 978-4-88352-030-5
- 「画家 大月源二の世界 -いまに生きる歴史の証」編・画家 大月源二の世界刊行委員会、大月書店