大岬音右エ門
(大岬丈右衛門から転送)
大岬 音右エ門(おおみさき おとえもん、生年不明 - 1814年9月16日〈文化11年8月3日〉)は、秀ノ山部屋に所属した元力士[1]。大岬音右衛門との表記もある[2]。
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基礎情報 | ||||
四股名 | 関之戸 音右エ門 → 関ノ戸 音右エ門 → 大見崎 音右エ門 → 大岬 音右エ門 → 大岬 丈右エ門 → 大岬 丈右衛門 | |||
本名 | 不明 | |||
生年月日 | 不明 | |||
没年月日 | 1814年8月3日 | |||
出身 | 陸奥国仙臺(現・宮城県仙台市) | |||
身長 | 191cm | |||
体重 | 不明 | |||
所属部屋 | 秀ノ山部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東大関 | |||
生涯戦歴 | 57勝24敗3分1預6無70休(17場所) | |||
幕内戦歴 | 生涯戦歴と同数 | |||
優勝 | {{{優勝}}} | |||
賞 | {{{賞}}} | |||
データ | ||||
初土俵 | 1801年11月場所(江戸・大関付出) | |||
入幕 | 1801年11月場所(江戸・大関付出) | |||
引退 | 1814年4月場所 | |||
備考 | ||||
本名は徳田と伝わるが不明[1]。身長191cm、体重は不明[1]。陸奥国仙臺(現在の宮城県仙台市)出身[1][2][3]。
最高位は東大関。
1801年11月場所で、「仙臺」頭書の関之戸音右エ門で看板大関として付出された[2]。看板大関にありがちな土俵入りのみを行う力士とは違い、本場所の相撲も取った。文化年間に入ると看板大関の地位を辞退して、他の力士と変わらない身分で相撲を取るようになった。幕内では勝率が高く、1810年10月場所で7勝2敗1預の優勝次点(優勝相当成績は雷電爲右エ門で7勝1敗1休1分)の好成績を挙げた[4]。1814年4月場所で12年ぶりに大関に返り咲いた[1]が、初日の日下山(ひげやま)戦に勝利したのみで残りを休場[5]。そしてこの場所終了後の1814年8月3日に現役中のまま死去した。
抱えは死去までに、仙台藩(1801年11月 - 1803年5月)→ 高松藩(1803年10月 - 1807年11月)→ 久留米藩(1808年10月 - 1814年4月)と変わった。
幕内通算 17場所 57勝24敗3分1預6無70休の成績を残した。
改名歴は5回ある:関之戸 音右エ門 → 関ノ戸 音右エ門 → 大見崎 音右エ門 → 大岬 音右エ門 → 大岬 丈右エ門 → 大岬 丈右衛門[1]。
場所別成績
編集春場所 | 冬場所 | |||||
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1801年 | x | 西大関 2–1–3 |
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1802年 | 西大関 4–3–3 |
東大関 0–0–10 |
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1803年 | x | 東関脇 4–2–3 1無 |
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1804年 | x | 東関脇 6–3–1 |
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1805年 | x | x | ||||
1806年 | x | x | ||||
1807年 | x | 西張出前頭8枚目 4–2–1 1分2無 |
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1808年 | x | 東小結 0–0–10 |
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1809年 | 東小結 0–0–10 |
東小結 6–2 1分1無 |
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1810年 | 東小結 6–2–1 1無 |
東小結 7–2 1預 |
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1811年 | 東小結 6–2–2 |
東小結 5–3–1 1分 |
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1812年 | 東小結 0–0–5 |
東小結 6–2–1 1無 |
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1813年 | 東関脇 0–0–10 |
x | ||||
1814年 | 東大関 引退 1–0–9 |
x | ||||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |